2012年01月08日

「教会を建てあげる つまずきとゆるし」

ルカによる福音書17:1-4
イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

《小さい者をつまずかせる》
本日の箇所には「これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」(17:2)とあります。ここで言われている「小さい者」とはどういう人のことでしょうか。文字通り、小さい子どものことを指しているでしょうか。色々な見方ができるかも知れません。ただ、ここでは、むしろ、信仰的、霊的に、小さい存在、成熟していない存在ということが言われているのではないかと思います。そんな中、誰かがこの人たちに責任をもって関わり、信仰を育み、導いていかなければならない…。そういう存在なのではないかと思うのです。私たちに引き寄せていうならば、信仰に入って間もない人、あるいは教会に集って間もないような求道者ということが言えるかも知れません。そんな人々を指して、「これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がまし」だと言われたのです。
《教会において、人をつまずかせるもの》
 私たちは、このことについて、どれほど真剣に考えているでしょうか。本日の箇所を読みながら、改めて、そのことを考えさせられます。私たちは、せっかくイエス・キリストの福音という主の溢れるほどの恵みに招かれているのに、実際にその恵みに与っていることは本当に少ないという状況があります。その大きな要因の一つは、教会の周りに、人をつまずかせるものが、たくさんあるからではないかと思います。教会において、人をつまずかせるもの…。私たちはそんなことを考える時、どういうことを思い浮かぶでしょう。たとえば、教会というものに対して、多くの方は敷居が高く感じているのではないかと思います。また、今日の色々な宗教がらみの問題の中で、キリスト教だけに関わらず、宗教というものに対して、警戒心を持っている人もたくさんおられるのではないかと思います。あるいは、聖書を手に取って読んでも、正直分かりにくかったりする…。あるいは、現在のこの世の価値観と、聖書の語るメッセージの根本的な違い…。そんな中、聖書のメッセージに戸惑ったり、分からなかったりする人がいるかも知れません。そんなふうに、今の時代、本当に教会の周りには、人をつまずかせてしまうものが、たくさんあるのだと思います。そんな中、私たちの現実は、伝道することが困難な状況があるのではないかと思うのです。
《私たちの振る舞いや言葉》
しかし、何と言うのでしょう。そういうことと同時に、教会にすでにつながっている私たち自身が、時に誰かのつまずきとなってしまっている…。そんなことはないでしょうか。私たちの振る舞いや、言葉が、他の誰かにとってのつまずきとなってしまっていることがあるかも知れないと思うのです。このことは、私たちが教会を建て上げようとする時に、真摯に考えていかなければならないことなのだと思います。イエス様は、私たちに教会を建て上げるよう、神の宮を建て上げるように、働きを託してくださっています。そんな中、私たちのもとに、未だ福音を知らない、霊的に小さい人を主の許に招こうと、私たちに託そうとしてくださっています。そんな中、これら小さい者の一人に、どのように関わっていくのか…。私たちは、そのことを丁寧に考えなければいけないし、軽んじてしまってはいけないのだと思うのです。
《それでも私たちを》
 ただ、同時に私たちの限界も感じます。本日の箇所で、イエス様はおっしゃいました。「つまずきは避けられない」(17:2)。この御言葉にあるように、私たちがどれだけ、思いをもって、配慮をもって、相手に関わっているつもりでも、私たちが予期しないことでつまずいてしまうことがあるのではないでしょうか。私たちはお互いに弱さや足りなさを抱えた者同士です。そんな中、どんなに思いがあっても、かみ合わなかったり、一つになれなかったり、限界もあるのだと思うのです。つまずきを避けたいと思いながらも、避けられない現実もあるのだと思うのです。そんな現実を思う時、何よりも考えさせられるのが、それでも私たちを信じて、用いようとしてくださっているイエス様の姿です。本日の箇所でもそうなのではないでしょうか。イエス様の前には、つまずかせてはいけないと言われながら、つまずいたり、つまずかせたりしてしまっている弟子たちがいたのだろうと思います。しかし、そんな弟子たちを見つめながら、それでも、イエス様は弟子たちと主の器として立て、福音宣教の御業を託そうとされていたのです。
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2012年01月01日

「二人または三人集まるところに」

マタイによる福音書18:18-20
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。


《二人または三人集まるところに》
「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:19-20)。
本日の箇所というのは、よく「教会の一番原型となる姿がここに表されているんだ」と言われます。私はこれまで何度となく、この箇所を読んできました。しかし、今回、改めてこの箇所を読みながら思ったのは、ここで、主に祈り求めている二人…。あるいは、イエス様の名前によって集まっている二、三人というのは、どういう思いの中で、集まっているんだろうということです。皆さんは、どのようなイメージを抱くでしょう。何の気なしに集まっているのでしょうか。とにかく、それぞれ自分の思いや願いを主に訴えているのでしょうか。私は必ずしもそうではないと思います。
《罪を犯した兄弟への忠告》
本日の箇所というのは、18:15-17のつながりの中で語られています。ここには「罪を犯した兄弟への忠告」が語られています。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(18:15-17)。
 このメッセージがあって、続いて、二人が地上で心を一つにして求める、二人または三人がイエス様の名前によって集まっていくということが語られているのです。ここのところから思うのは、ここで集まって、主に願い求めている人たちというのは、何の気なしに集まっているのでも、とにかく、それぞれ自分の思いや願いを主に訴えているのでもないということです。それぞれが色々な思いを抱えていたんじゃないでしょうか。自分の教会の兄弟が罪を犯している…。そんな兄弟に対して何かしらの忠告をしなければならない…。そんなふうに、今、置かれている状況や人間関係で色々なことで悩んだり、課題を抱えていたりしながら、色々な思いを互いに抱えながら、集まっていたのだと思うのです。問題だらけの今の現実、この地上で、切実な思いで、心を重ね合わせながら主を呼び求めながら、イエス様の名前によって共に集っている状況なのです。そして、それが教会としての姿に挙げられているのです。
《色々な思いを抱えながら》
 このことを思う時、色々なことを思います。私たちの教会…。そこにはそれぞれ、互いに色々な思いを携えているのだと思います。今、置かれている状況や人間関係で色々なことで悩んだり、課題を抱えていたりする…。そんなふうに色々な思いを互いに抱えながら、そんな私たちが今、この場所に集っているのではないでしょうか。そんな中、場合によっては、教会の中においても色々なことがあるかも知れません。18:15-17にあるように、互いに、過ちや失敗をしてしまって、心を痛めるようなことがあったりするかも知れないと思います。しかし、そんな色々な思いを抱えながら、私たちはこの場で互いの思いを重ね合わせながら、主を呼び求めていく…。色々な状況の痛みを覚えながらも、それでもイエス様の名のもとに集まっていく…。それが私たちの教会なのだと思うのです。
《教会とは何か》
 この教会の姿というのを、私たちは大切にしていきたいと思います。何というのでしょう。昨年を振り返っても思うのは、どうしてもバタバタとするようなことが続いている状況で、お互いの思いを分かち合ったり、確認したりすることが丁寧にできなかったりすることがあるのではないかということです。皆、それぞれ抱えている色々な働きがある中で、十分に意思を確認できない様な時もあるかも知れなかったりするのではないでしょうか。あるいは様々な事情で、どうしても教会に集うことができない…。距離的にコミュニケーションが十分に取れなかったりする状況もあります。ともすると、そんな中、どうしても、互いの思いがあっちに行ったり、こっちに行ってしまいかねないような状況があったりするのではないかと思います。でも、そんな時こそ、私たちは教会として、共に立つことが必要です。今、この時こそ、「教会とは何か」ということを大切に心に刻みながら歩んでいくことが大切なのだと思うのです。
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2011年12月25日

「クリスマスの扉 博士たちの場合」

マタイによる福音書2:1-12
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。



《婦人の質問》
 今年最後の聖書の箇所として選ばせていただいたのが、東方の博士たちの物語です。私は、この記述を読む時、思い出すことがあります。数年前になりますが、あるところでクリスマスメッセージをさせていただく機会がありました。その時、控え室で待っていたところ、一人の婦人から質問を受けました。その婦人は、まだクリスチャンではありませんでした。しかし、聖書に興味があるそうで、クリスチャンの方々と一緒に、聖書を学んでいたのだそうです。ただ、そのように聖書に惹かれながらも、信仰の世界に、どこかしら踏み込めない自分がいる・・・。その一番の理由というのは、今の不安定な世界、矛盾だらけの世界を思う時、本当に神はおられるのだろうか?神は何故このような世界を造られたのだろうか?そんなふうに思ってしまうからだとおっしゃっていました。
《神の救いのしるし》
私はその婦人に「私にはとても答えられません。私たちの思いを遥かに超えた神様の深い御旨があるのだろうと思います」と答えました。ただ、少しだけ付け加えて言わせていただきました。「このことは、質問の答えとはならないかも知れませんが、大切なこととして思うことは、私たちの目の前の世界が、どのような世界であったとしても、それでも神はおられるということには変わりはないということです。そして、この世界のただ中に、神は私たちに救いのしるしを示し続けているのです」。そのように、お話したのです。そして、なおもこんなお話をさせていただきました。それは、まさに最初のクリスマスこそ、そのような状況だったということです。矛盾だらけの世界、混乱の世界・・・。それが2000年前のユダヤの国を取り囲む状況でした。その時代、ローマ帝国が世界中を侵略、制圧し、世界中を支配下に置いていました。その強大な権力は世界を圧巻し、その頂点に立つローマ皇帝は自分こそ神だと宣言していました。まさに、当時の人々から見れば、もはや「本当に神様などいるのだろうか」と思ってしまう・・・。そのような世界だったのです。しかし、そんな世界の中にあって、神が救いのしるしを示され、イエス・キリストを送られた・・・。それがクリスマスの出来事でした。そして、東の国の博士たちは、神の救いのしるしを見つけ、そのありかを求めて、旅に出ていったのです。そんな中、信仰について考える時、私たちにとって大切なテーマは、「神はおられるのだろうか」と問うことよりも、むしろ、「神は一体今、この世界のどこに救いのしるしを置かれているのだろうか」ということなのではないでしょうか。私たちが、そのような視点を持つ時、私たちもかつての博士たちと同じように、今の世界にあって、神に出会うことができるのではないでしょうか。そんなお話しをさせていただいたのです。
《今回の震災を通して》
 ちょっと分かりにくい話だったかも知れません。でも、大切なことなのではないかと思います。実際、この婦人の言葉というのは、私たちの周りでしばしば聞く声なのではないでしょうか。そして、その声というのは、今年一年でさらに深刻な問いとなっているのではないかと思います。今回の震災を通して、「信仰が分からなくなった」「神様なぜ」という声があります。正直、そんな声に対して、明確な答えは出ません。分からないことばかりです。しかし、私たちが心に覚えていたいのは、それでも「ここに主はおられる」ということです。「神様なぜ」と思えてしまうような状況のただ中に、主はおられる…。そして、大切なのは、神様はおられるだろうかということを問うことより、神様は、今、この私たちの現実の中に、どのように働いておられるのか、どこに救いの道を開かれようとしているのか、どこに向かわれようとしているのかということではないでしょうか。神はこの私たちの現実のどこに救いのしるしを置かれているのだろうかということなのではないかと思うのです。
《博士たちの旅に連なる》
 そんな中、この東の国の博士たちの旅というのは、私たちの信仰の歩み、そのものだと言えるかも知れません。博士たちは、必死になって、「この世界のどこに神の救いのしるしが現されたのか」「どのようにして神の救いの業が始まったのか」と探して旅に出かけました。私たちの信仰の歩みは、この博士たちの旅に連なっていくことではないでしょうか。「今、私たちが立たされている現実のどこに、救いが置かれているのか」。時に迷いながら、立ち往生しながら、今の時代に示される救いのしるしを求め続けていく・・・。それが私たちの歩みなのだと思うのです。
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2011年12月18日

「クリスマスの扉 マリアの場合」

ルカによる福音書1:26-38
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
そこで、天使は去って行った。


《お言葉どおり、この身になりますように》
 本日の箇所には、マリアに救い主誕生の知らせが告げられた様子が記されています。天使は喜びに溢れながら、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言いました。しかし、これに対して、マリアは戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだと書かれています。それはそうだと思います。突然、天使が現れ、「おめでとう」などと言われても、何のことかさっぱり分からなかったでしょうし、突然のことでどう受け止めればいいかと分からなかったのだと思います。しかも、天使が告げた知らせは、「あなたはお腹の中に赤ちゃんを宿しているんだ」ということでした。まだ結婚もしていないのに、妊娠してしまうなんて、当時の状況では、とんでもないことでした。そんなことがあれば、裁判で裁かれて、石打の刑にされてしまうことも考えられました。そんなことを色々と考える時、天使から聞いた知らせは、とても祝福や喜びには思えなかったのではないかと思います。しかし、その中で、マリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」(1:38)天使に答えました。主の御言葉を信じ、受け入れていったのです。
《どんな思いで聞いたのか》
マリアはどんな思いで、天使の御告げを聞き、どんな思いで「お言葉どおり、この身に成りますように」と語ったのでしょうか。二つのことに注目したいと思います。一つは、天使の御告げを聞いた後、マリアがユダの町に急いで行ったということです(1:39)。何で、ユダの町に急いだのかというと、親戚のエリサベトに会うためでした。天使が御告げの中で語った言葉が、本当かどうかを確かめに行ったのです。このように、マリアは天使の御告げを聞いた後、すぐにその御告げが本当かどうか確かめにユダの町に向かったのです。
また、マリアは、救い主がお腹に宿ったということを聞いて、そのことを感謝し、讃美して、「マリアの讃歌」という有名な讃美を歌いました。ただ、聖書を読んでいくと分かるのですが、マリアが天使から御告げを受けてから、「マリアの讃歌」を歌うまで、タイムラグがあるのです。すぐに「マリアの讃歌」を歌っているわけではないのです。マリアは、天使の御告げを聞いた後、エリサベトの家を訪問し、その後にこのマリアの讃歌を歌ったのでした。
《不安や心配を抱えつつ》
 私はここに、マリアのリアルな思いというものが現れているのではないかと思います。マリアは天使の御告げを聞き、「お言葉どおり、この身に成りますように」と語りましたが、正直、マリアの中で、全てのことが整理されていたわけではなかったのだと思うのです。マリアは、天使の御告げを聞いた後、エリサベトのところに急いで向かいました。そうせずにいられなかったからではないでしょうか。また、御告げを聞いてから、「マリアの讃歌」までにタイムラグがあるということについても思います。マリアはすぐに讃美できなかったのではないでしょうか。御使いの御告げを聞いた後、マリアとしては、信じて、受け入れ、主の御旨の通りに生きようと決心したのですが、心の中には不安があったり、心配がありました。そんな中、エリサベトのところに行き、御使いの言葉が本当だということを確かめました。そして、エリサベトを通して、自分の身に起こっていることが素晴らしいことだということを知らされました。その時、ようやく、マリアは安心して、心からの神様への讃美を歌うことができたのだと思うのです。それが、マリアがこの受胎告知の出来事の中で通らされたリアルな思いだったのではないでしょうか。
《主の守りと支え》
 そんなマリアの姿から迫ってくるテーマがあります。それは信じて選び取るということです。私たちが信じて選び取っていく…。そんな時、私たちはマリアのような思いを通ることがあるのではないでしょうか。信じて選び取ろうとしつつも、心の中で不安を抱えている…。揺れている…。そんなことがあるのではないかと思います。ただ、本日の箇所から思わされることがあります。マリアは信仰の選び取りを迫られ、信仰を選び取った後も、不安な思いや揺れそうな思いがありました。しかし、そんなマリアの思いを、主が守ってくださり、支えてくださったということです。マリアは天使に導かれ、エリサベトのもとに向かいます。そこでマリアは本当に励まされる出会いを経験します。エリサベトから「あなたは祝福されているんですよ」と語られたことは、どんなに励まされ、勇気づけられたのでしょうか。この出会いを通して、マリアは心からの平安と讃美へと導かれていったのです。
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2011年12月11日

「クリスマスの扉 ヨセフの場合」 

マタイによる福音書1:18-25
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。



《マリアの妊娠》
 本日の箇所は、ヨセフの物語です。ヨセフは大工職人でした。そんな彼がある時、結婚することになりました。相手は、若く初々しいマリアという女性でした。ヨセフは、マリアに比べて高齢だったと言われています。彼はこれまで苦労して働きながら、ようやく歳を重ねて小さな幸せを見つけ、念願の安らぎの場所を見つけた…。それがマリアとの結婚だったのかも知れません。ヨセフにしてみれば、これから、マリアと共にささやかでも幸せなマイホームを築いていきたいという思いを持っていたのではないかと思います。しかし、そんなヨセフにとんでもない出来事が起こりました。結婚することになっていたマリアが原因不明の理由でみごもったのです。
《ヨセフの決断》
 それまでの幸せな思いが一気に奈落の底にでも突き落とされたような思いだったかも知れません。身に覚えがない、いい名づけの妊娠・・・。このことをどう解釈したらよいのか・・・。正直のところ、思いたくもありませんが、マリアに対して、疑いの眼差しを注がざるを得ませんでした。このことはヨセフ自身をどれだけ苦しめ、傷つけたでしょうか。このとき、ヨセフはまだ、マリアの身に本当に起こったことを知りませんでした。神がマリアの身に救い主を宿したことなど、想像もできなかったのです。色々考えた結果、ヨセフが考えたのが、マリアとひそかに縁を切ろうということでした。1:18-19の数行に書かれている言葉の中に、どれだけのヨセフの葛藤や悩みがあったのだろうかと思います。事実を知ったことの驚きから始まって、ショックで立ち尽くしたり、感情的になったり、あれこれ考えながら戸惑ったり、悩んだり、きっと誰にも分からないような場所で、あれこれと色々なことを考えながら、悩みに悩みぬいていたのではないかと思うのです。
《御使いの言葉》
 そんなふうに、悩んだ末にマリアと離縁することを決めたヨセフに対して、主の御使いが現れました。そして、御使いは、ヨセフに対して、こうしなさいと、ヨセフが選ぶべき道を伝えたのです。それはヨセフがそれまで散々模索した方法とは全く違う道でした。「マリアと結婚し、妻として迎えなさい」御使いはそのように伝えたのです。
《受け止められない言葉》
御使いの告げた言葉というのは、ヨセフにとって、そんなに簡単に聞ける言葉ではなかったのではないかと思います。これまで、色々悩んで、考えて、ヨセフは自分なりに正しいと思って決めたことがありました。自分で決めたことを今更変えるなんてこと、中々できなかったのではないかと思います。また仮に変えるということを考えたとしても、御使いの告げる言葉に従うことは中々できなかったのではないかと思います。マリアを妻として迎えなさいと言われても、感情的に納得できないと部分もあったでしょうし、実際にマリアを妻として迎えたら、どうなるか…。色々な問題が湧き上がってくることも想像できました。考えただけでも心配事ばかり湧き上がってきたのではないでしょうか。そんな状況の中で、ヨセフは御使いに告げられた神様の御言葉を聞くことになったのです。
《御言葉を聞くということ》
 本日の箇所から、神様の御言葉を聞くということは、どういうことなのかということを考えさせられます。御言葉は、時に私たちの思いとは、違った方向を指し示すことがあります。私の思いもよらなかった方向、あるいは薄々こっちの方がいいんじゃないかと分かっていたけど、実は避けようとしていた方向を指し示すようなこともあるのです。そして、そのような神様の御言葉を聞くというのは、本当に困難です。自分の思いや考えで一杯一杯になっている時には、中々聞けなかったりするかも知れません。本当に心を砕いて、主の前に静まっていこうとしないと聞くことができなかったりするかも知れないと思います。
《恐れるな》
しかし、覚えていたいことがあります。私たちが、私たちなりに本気で御言葉を聞こうとして歩もうとする時、たとえそれが、自分の思う方向、自分の思い描いていた歩みと違っていても、そこに踏み出そうとしていく時、聞こえてくる声があります。それは、ヨセフに語られた「恐れるな」という声です。私たちが御言葉に生きようとしていく時、この主の呼びかけが私たちの心を覆います。平安が私たちを包むのです。
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2011年11月06日

「金持ちとラザロAラザロの視点から」

ルカによる福音書16:16-31
律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。 しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。
妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」


《ラザロの視点から》
 「金持ちとラザロのたとえ」は、基本的に金持ちが中心の物語なのだと思います。しかし、ラザロの視点からこの物語を読む時、また違ったメッセージを聞くことができるのではないでしょうか。
《理不尽なことばかり》
この物語をラザロの視点から読む時、何より思うのは「何て理不尽なことばかりあるんだろう」ということです。ラザロは「貧しい人」と書かれています。状況から見て、ラザロは明らかに物乞いでした。そんな中、ラザロは金持ちの食卓からこぼれてくるものででもいいから、お腹を満たしたいと考えていたのです。カナンの女の物語に「主人の食卓から落ちるパン屑」(マタイ14:21-28)という話が出てきますが、ここでパン屑を食べるのは、子犬です。つまり、食卓からこぼれ落ちるものを食べるというのは、普通、犬がしていることなのです。ラザロはそのように人としてではなく、犬のように扱われても構わないから、お腹を満たしたいと考えていたのです。また、この人は、病を抱えていました。全身にできものができていたと書かれています。考えただけでも、本当に辛かったのだと思います。しかも、そんなラザロの苦しみや痛みを分かってくれる人は誰もいませんでした。ラザロは金持ちの門の前で横たわっていました。金持ちの家というからには、町の中心地だったのだろうと思います。家の前には多くの人が行き交っていたのではないでしょうか。この金持ちも出かける度に、ラザロがいる様子を見ていたのだと思います。しかし、誰もラザロを顧みてはくれませんでした。むしろ、門の前をそそくさと通り過ぎる人の多くは、ラザロに対して、心ない態度を取ったのではないかと思います。その度、ラザロは孤独を感じたのではないでしょうか。しかも、横を見れば、自分が苦しんでいるのをよそに、楽しそうに過ごしている金持ちの姿が見えました。その姿を見る度に、やりきれない思いにさせられたのだと思います。それがラザロの置かれた状況でした。ラザロにとって、この世界は理不尽なことばかりでした。そして、ラザロはそのまま天に召されてしまうのです。ラザロは生きている間、理不尽なことばかり経験しながら、そのことに散々、振り回されながら、結局、何も報われることもないまま、亡くなってしまったのです。
《ラザロへの慰め》
そんなラザロの姿を見ながら思います。私たちの歩みには、時にラザロのような現実があったりするのではないでしょうか。理不尽なことや納得できないこと…。そんな中、私たちは時に、やりきれない思いをさせられたり、「なぜ」という思いに苦しんだり、振り回されたりするようなことがあるのではないでしょうか。本日の箇所に記されているラザロというのは、そんな私たちの姿を代弁しているような姿と言えるかも知れません。結局、ラザロは生きている間、状況は何も変わることなく、「やがて、この貧しい人は死んだ」と書かれています。そこだけを見ると、本当にラザロの人生は辛いだけです。しかし、それで終わりではありませんでした。16:22には、このように続くのです。「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」(16:22)。 ラザロは生きている間、散々苦しいことを経験しましたが、それで終わることはありませんでした。ラザロは死んだ後、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれました。そこではラザロがこれまで受けてきた悲しみとは比較にならないような喜びがあったのです。そのように、ラザロの歩みを主は覚えていてくださいました。そして、ラザロの痛みも悲しみも、全てを贖ってくれる主の慰めが、ラザロの歩みを取り扱ったのです。本日の箇所から共に読んでいきたい大切なメッセージがここにあります。
《「金持ちとラザロの世界」で》
 先週、この箇所を読んだ時にもお話ししましたが、この「金持ちとラザロ」の世界というのは、自明なことではありません。こんな理不尽だらけの世界は、本来、変えられなければならないと思いますし、ラザロのような悲しみが当たり前であってはならないと思います。しかし、私たちの現実は、やはりどこかでこの「金持ちとラザロ」のような世界を作り続けてしまっているのではないでしょうか。理不尽なことがあったり、納得できないようなことがあったりするのだと思うのです。そこだけを見ていては、本当にやりきれない思いにさせられるのだと思います。私たちが見ていくのは、そのような現実ではありません。もちろん、そのような現実も無視できませんが、私たちは何より、主を見上げていきたいと思うのです。
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「金持ちとラザロ@金持ちの視点から」

ルカによる福音書16:16-31
律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。 しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。
妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。 犬もやって来ては、そのできものをなめた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。 金持ちも死んで葬られた。 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」


《金持ちとラザロ》
 本日の箇所は、金持ちとラザロが主人公です。一人の金持ちがいました。この金持ちはいつも豪勢な暮らしをしていました。何不自由なこともなく、贅沢三昧をして過ごし、生涯を過ごしたのです。すると、死んだ後、金持ちが向かったのは、神の裁きの世界でした。金持ちは陰府の炎の中に置かれ、苦しみ、痛み、過ごすことになったのです。すると、はるかかなた先に、生前、自分の家の前で物乞いをして過ごしていたラザロが神の祝宴に入れられている様子が見えました。その姿を見て、この金持ちはラザロを遣わして、自分を助けてくれと懇願しました。そして、自分たちの兄弟がこんな目に遭わないようにしてくれと願ったのです。しかし、時すでに遅しで、この金持ちの願いは聞き届けられなかったのでした。
《この世の富にまつわる話》
私たちは、この物語の中からどんなメッセージを聞くことができるでしょう。まず、ルカによる福音書16章を振り返ってみたいと思います。まず、16:1-13に書かれているのは、不正な管理人の話です。ここに登場するのは、管理人の身分でありながら、主人の財産を勝手に無駄遣いしている人の物語です。続いて16:14-18に記されているのは、金に執着するファリサイ派の人々に対して語られているメッセージです。そして、本日の箇所に記されているのが、贅沢三昧の暮らしをしている金持ちの話です。そのように見る時、16章には再三、この世の富にまつわる話が繰り返されています。この世の富を持っている人たちが不正をしてまで、好き勝手に使おうとしたり、神様に従おうとしているはずのファリサイ派の人々までも、この世の富に執着したり、この世の富を手に入れた金持ちは、我が物顔で贅沢三昧をして暮らしていたりするのです。そして、そんな姿を思いながら、ここに私たちの現実があるのではないかと思います。私たちもここに登場する人々と同様に、この世の富に心奪われたり、翻弄されている状況があるのではないかと思います。
《金持ちに欠けていた眼差し》
 本日の箇所に登場する金持ちは、多くの富を所有していました。そして、それを当然のように自分のものだと考えてきたのではないでしょうか。富を自分の好きなように使うことに対して、金持ちは何の違和感もなく、贅沢三昧をして過ごしてきたのだと思います。しかし、ここでイエス様の眼差しはそうではありませんでした。16:25で金持ちに対して、「お前は生きている間に良いものをもらっていた」と呼びかけられているように、金持ちが所有していた富は、実は「主から与えられたものだ」と言われているのです。そして、そのように主から与えられていたのは、決して自分たちだけで贅沢三昧をして暮らすためではありませんでした。彼の家の門に出れば、そこにはラザロが横たわっていました。おそらく、彼はその事実を知っていたのだと思います。彼は果たすべき務めがありました。本来、神様から与えられた富や恵みを用いて、ラザロを助けてやらなければなかったのです。しかし、何もしませんでした。そのことが問われていたのではないでしょうか。そんな金持ちの姿を見てどうでしょう。私たちは何だかんだ言って、この世の富を無視できないような世界に生かされています。それをどうでもいいなどと簡単には言えません。そのこと自体が罪悪なのではないと思います。問われていることは別にあるのではないでしょうか。それは、まさに本日の金持ちに欠けていた視点です。私たちが所有しているものは、私たちが当然のように所有しているものではなく、主から与えられているものなのです。そして、それは、ただ与えられているだけではなく、時に主は、私たちに対して、良い賜物を託しながら、主のためにその賜物を用いなさいと呼びかけているのです。
《主の眼差しを自覚する》
本日の箇所に登場する金持ちを読みながら、16:1-13に記されている不正な管理人の話が対照的に響いてきます。不正な管理人も本来の自分の役割を果たすこともなく、自分の好き放題していったという点では、金持ちと全く同じです。しかし、この不正な管理人は、途中で自分の間違いを自覚し、自分の歩みを正すことができました。結果、主人の裁きを免れることができました。この不正な管理人は、何で、そのように、自分の歩みを正そうと思ったのでしょうか。それは、何より、この不正な管理人が、主人の眼差しを自覚したからでした。自分の過ちを自覚し、これは決して見過ごしにできない問題だということを自覚しました。その時、不正な管理人の歩みは変えられ、自分の歩みを軌道修正することができたのでした。
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2011年10月30日

「律法の文字の一画でも」

ルカによる福音書16:10-13
ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

《あざ笑うファリサイ派の人々》
本日の箇所に登場するのはファリサイ派の人々です。彼らはイエス様の話を一部始終聞いていました。この一部始終とは何かと言うと、16:1-13に書かれている不正な管理人の話です。イエス様はこのたとえを通して、私たちが、神様から大切な役割を託されているのに、そのことをわきまえず、自分たちの好き勝手して、どうにもならない状況になってしまっていた管理人のようであることを示されました。同時にそんな私たちが、このたとえに登場する主人のような、神の憐れみに招かれていることを語ったのです。しかし、それを聞いていたファリサイ派の人々は、イエス様に対してあざ笑ったのです。
《自分には関係ない》
 そんなファリサイ派の人々の姿を見て、色々なことを思います。まず思うのは、彼らはおそらくここでイエス様が語られた話が一切、自分には関係のない話だと思っていたのだろうなということです。この主人と管理人とのやり取りを聞きながらあざ笑う…。自分に関係ない話だと思うから、そんなふうに笑えると思うのです。しかし、はたしてそうでしょうか。ここで語られている不正な管理人というのは、他ならぬ私たちのことであり、このファリサイ派の人々のことなのです。にも関わらず、ファリサイ派の人々は、そんなふうに考えることもなく、自分には関係ないと言ってあざ笑ったのです。
《金に執着するファリサイ派の人々》
 イエス様の不正な管理人の話は、次のような言葉で締めくくられています。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(16:13)。人は神と富とに仕えることができない…。そのイエス様の言葉に続いて、「金に執着するファリサイ派の人々」の話が語られているのです。ここのところを読む時、まさにこの不正な管理人の話が他ならぬ彼らに語られていることを思います。ファリサイ派として表面的には神様に仕えるとしていながら、実際には富に執着している…。人が神と富とに仕えることができないなら、この人たちは実際には神様ではなく、富に仕えていたのだと思います。そのように、まさにイエス様からの眼差しでは、彼らこそ、この不正な管理人そのものでした。しかし、彼らはそんなふうに考えることもありませんでした。そのようにして、彼らはイエス様が語ってくださった恵みのメッセージを拒んだのでした。
《律法の文字の一画でも》
 すると、彼らに対して、イエス様は言われました。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」(16:15-18)。ここにはイエス様の恵みのメッセージを拒んだ彼らに対する応答の言葉が記されています。ここに書かれているのは、一言で言うなら、律法の厳しさではないでしょうか。人はこの神の律法の前に立たなければならない…。この神の律法は、一字一句さえ消え去ることがない…。人は、この律法の前に立って、応えていかなければならないのです。
《神の憐れみによって》
 ファリサイ派の人々は、これまで自分たちが優秀だと思っていたことでしょう。周りの人々に比べて、ちゃんと聖書の言葉も勉強していましたし、律法にそれなりに応えて歩んでもきました。そんな中、ファリサイ派の人々は、自分たちが不正な管理人のような落第者ではなく、神様からテストされてもそれなりの成績を収めることができてきたと思い込んでいたのではないかと思います。しかし、そうではありませんでした。彼らが律法の御言葉の前に立ち、問われていく時、とても耐えうることなどできなかったのです。彼らの身の丈というのは、本来、そのようなものでした。しかし、そんな彼らが神の憐れみと恵みによって、赦され、生かされ、救いに招かれていたのです。そんな中、イエス様は言われたのです。あなたたちが神の憐れみを拒んだとしたらどうなるのか…。それに耐えられるのか…。律法の前に立つことができるのか…。そのように彼らに突き付けられていたのです。
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2011年10月09日

「ごく小さなことから」

ルカによる福音書16:10-13
ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

《ごく小さな事に》
「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(10:10)。イエス様はここで小さな事柄に忠実であることの大切さを教えてくれました。本日の御言葉は、私にとって「自分の歩みを拓いてくれる言葉」だと考えています。私はこれまで、この御言葉の前に幾度も立ち止まらされ、反芻させられてきました。そして、自分がどのように歩むべきか分からなくなってしまいそうになった時、大切なこと、自分のやるべきことを教えてもらいました。言うなれば、私にとって、「人生のコンパス」のような言葉だと考えています。
《見失ってしまう言葉》
ただ、一方で思うことがあります。それは、この言葉は、私にとって、本当に大切な言葉なのですが、時に忘れてしまいやすいというか、見失ってしまうというか、そんな言葉でもあるということです。元来、私は大雑把な性格です。一つ一つのことをいい加減に考えてしまうことがあります。それと同時に、自分が色々な課題や問題の渦中にある時、色々なことを考えたり、抱えてしまったりしながら、一つ一つのことと向き合うことができなくなってしまうというか、小さな事に思いが向かなくなってしまう自分がいたりします。それどころじゃない・・・。そんなことに意味があるのだろうかと思ってしまう自分がいるのです。皆さんはどうでしょうか。
《不正な管理人のたとえ》
 私は、自分自身の中に、そんなふうに「小さな事に忠実でありなさい」という言葉を聞きながらも、それをおろそかにしてしまう自分がいることを思います。そんな中、本日の聖書の箇所を改めて読みながら、ハッとさせられることがあります。本日のイエス様のたとえというのは、一つのたとえ話との関連の中で語られています。それは「不正な管理人」と呼ばれているたとえです。このたとえについては、前回、ご一緒に考えてきました。このたとえは、そのまま読むと、やること、なすこと、とんでもないというか、ここからイエス様が一体何を語ろうとされているのか、良く分からないように思えてしまうたとえです。しかし、実はここには大切なメッセージが語られています。「罪」というテーマや、「悔い改め」というテーマ、そして、「恵み」というテーマなど、私たちはこのたとえを通して、学ぶことができるのです。いずれにしても、イエス様は、この「不正な管理人とのたとえ」との関連の中で、本日のメッセージを語ったのでした。そんな中、思うのは、このたとえの中に登場する不正な管理人は、自分のどうにもならない過ちに、行き詰まり、追い詰められていたんだろうなということです。正直、どうにもならないという状況の中で、何をしていいか分からない・・・。そんな状況に置かれいたのではないでしょうか。そんな中、せめてもの働きとして行なったのが、「借金をしている人たちの借金の証文を書き換えて、幾人かでも友達を作る」という働きでした。そのように、不正な管理人が小さな事一つ一つに忠実にさせられていく・・・。その背景には、自分には追いきれない問題があって、どうにもならない事柄があって、ある意味、「もう駄目だ」と割り切ってしまうほかないような状況があったのです。この不正な管理人は、誰よりもそのことを自覚していました。自分はもはや自分で自分をどうにかすることもできない・・・。誰かの憐れみにすがって生きるしかないという思いにさせられていたのです。しかし、そのことを悟った時、目の前の一つ一つのことが見えてきました。こんなことが本当に解決になるか分からなかったですし、意味があるかどうかも分かりませんでしたが、そうするより、他ありませんでした。そんな中、小さな事一つ一つに忠実にさせられていったのです。
《神の憐れみにすがって》
私たちは、この不正な管理人の姿を覚えていたいと思います。私たちが一つ一つ小さな事に忠実にさせられていく・・・。そのことに留まって生きていく・・・。そのことを考える時、私たちはわきまえていなければならないことがあるのではないでしょうか。それは、この不正な管理人のように、自分の限界を知らされ、自分には追いきれない問題がある・・・。どうにもならない事柄がある・・・。そのことをわきまえていくということではないかと思います。自分が神の憐れみにすがって生きるしかないことを知っていく・・・。そのことをわきまえていく中で、目の前の一つ一つのことの前にへりくだり、仕えることができるのではないかと思うのです。
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2011年09月25日

「不正な管理人」

ルカによる福音書16:1-9
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。
そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

《不正な管理人》
本日の箇所に登場するのは、一人の管理人です。この管理人は、主人から財産の管理を全て任されていました。当時、このような形で管理人を立てるということはよくあったそうです。ただ、この管理人は主人の留守中、とんでもないことをしてしまいます。主人がいないことをいい事に、財産を自分の好き勝手に無駄遣いしてしまったというのです。しかし、悪いことは続きませんでした。ある時、管理人の振る舞いを主人に告げ口する者があって、自分のしたことがばれてしまうことになるのです。自分がもうすぐ首になるかも知れないと悟ったこの管理人は、今度は主人に借りのある者たちを呼び寄せて、次々にその人たちの証文を書き換えてしまったのでした。今の内に、色々な人に貸しを作っておけば、自分が首になってしまった時に、何かしら便宜を図ってくれるかも知れない・・・。そんな打算的な考えで、主人の証文を勝手に書き換えていったのです。
 もし、私たちの身近にこんな人がいたらどうでしょうか。とんでもないと思います。自分の財産を無駄遣いしている・・・。そのことだけでも、とんでもないことですが、それがばれそうになった途端、今度は自分が他の人に貸していた借金の証文まで、勝手に書き換えていこうとする・・・。そんなことまでされたら、たまったものじゃないのではないかと思います。そのように散々、この管理人は、主人に対して、恩を仇で返すようなことをしていきました。そんな中、普通に考えるなら、このたとえの最後は、「管理人の振る舞いに腹を立てた主人が、管理人を家から追い出した」という話になるのではないでしょうか。しかし、ここでよく分からない展開になってしまいます。一連の管理人の振る舞いを見た主人は、「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(16:8)というのです。何で、この主人は、管理人のやり方を誉めたのでしょうか。イエス様はこのたとえを通して、何をおっしゃろうとしているのでしょうか。
《管理人とは?》
 まず心に留めていきたいのは、イエス様が本日のたとえの中で、挙げられた管理人ということです。聖書には度々私たちが神様から与えられた賜物を託された管理者であることが語られています。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(Tペトロ4:10)。そのことを思う時、本日の箇所で、イエス様が管理人のたとえを語られていることの理由が示されるのではないでしょうか。このたとえで語られているのは、私たちのことではないでしょうか。私たちこそ、神様から大切な働きを託された管理者なのです。
《主の眼差しを感じる中で》
 本日の箇所の管理人は、主人から管理者としての特別な働きを託されていたのに、全くその自覚をもっていませんでした。自分がしなければならないことを、本当は分かっていたはずなのに、しようとしなかったのです。私は最初、この管理人が本当にとんでもない奴だと思っていました。しかし、よくよく考えてみる時、この管理人は、実は私自身のことではないかと思います。
この管理人は、管理人としての役割が与えられていることは分かっていましたが、好き勝手に過ごしていました。それは、主人の眼差しをきちんと意識していなかったからだと思います。しかし、そんな管理人に、主人の眼差しが迫ってきました。主人が自分のすることを見ている・・・。そのことで問われる時が来る・・・。裁かれる時が来る・・・。その思いが迫ってきたのです。その時、もはやこの管理人は、これまでのように、好き勝手することができなくなってしまいました。管理人は、今までほとんど考えることもなかった自分の罪を自覚し始めます。自分は何をしてきたのだろうか・・・。自分はしなければならなかったはずのことをきちんとしてきたのだろうか・・・。いや、何もしてこなかった・・・。それどころか、自分はこれまで決して赦されることもないような過ちを繰り返ししてきた・・・。そのように自分の罪や過ちと向き合わされていったのです。そして、その時、管理人の歩みは変えられたのです。
 本日の不正な管理人のたとえは、受け入れ難いところや、そのまま肯定できないようなところがたくさんあります。しかし、ここには罪のこと、悔い改めのこと、そして、世に仕えていくということ、そして、そんな罪だらけの私たちを、一方的な憐れみで受けとめてくださる神様のこと、そのように、様々な形で、福音のメッセージに溢れている箇所だということができるのではないでしょうか。
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