ルカによる福音書17:1-4
イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
《小さい者をつまずかせる》
本日の箇所には「これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」(17:2)とあります。ここで言われている「小さい者」とはどういう人のことでしょうか。文字通り、小さい子どものことを指しているでしょうか。色々な見方ができるかも知れません。ただ、ここでは、むしろ、信仰的、霊的に、小さい存在、成熟していない存在ということが言われているのではないかと思います。そんな中、誰かがこの人たちに責任をもって関わり、信仰を育み、導いていかなければならない…。そういう存在なのではないかと思うのです。私たちに引き寄せていうならば、信仰に入って間もない人、あるいは教会に集って間もないような求道者ということが言えるかも知れません。そんな人々を指して、「これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がまし」だと言われたのです。
《教会において、人をつまずかせるもの》
私たちは、このことについて、どれほど真剣に考えているでしょうか。本日の箇所を読みながら、改めて、そのことを考えさせられます。私たちは、せっかくイエス・キリストの福音という主の溢れるほどの恵みに招かれているのに、実際にその恵みに与っていることは本当に少ないという状況があります。その大きな要因の一つは、教会の周りに、人をつまずかせるものが、たくさんあるからではないかと思います。教会において、人をつまずかせるもの…。私たちはそんなことを考える時、どういうことを思い浮かぶでしょう。たとえば、教会というものに対して、多くの方は敷居が高く感じているのではないかと思います。また、今日の色々な宗教がらみの問題の中で、キリスト教だけに関わらず、宗教というものに対して、警戒心を持っている人もたくさんおられるのではないかと思います。あるいは、聖書を手に取って読んでも、正直分かりにくかったりする…。あるいは、現在のこの世の価値観と、聖書の語るメッセージの根本的な違い…。そんな中、聖書のメッセージに戸惑ったり、分からなかったりする人がいるかも知れません。そんなふうに、今の時代、本当に教会の周りには、人をつまずかせてしまうものが、たくさんあるのだと思います。そんな中、私たちの現実は、伝道することが困難な状況があるのではないかと思うのです。
《私たちの振る舞いや言葉》
しかし、何と言うのでしょう。そういうことと同時に、教会にすでにつながっている私たち自身が、時に誰かのつまずきとなってしまっている…。そんなことはないでしょうか。私たちの振る舞いや、言葉が、他の誰かにとってのつまずきとなってしまっていることがあるかも知れないと思うのです。このことは、私たちが教会を建て上げようとする時に、真摯に考えていかなければならないことなのだと思います。イエス様は、私たちに教会を建て上げるよう、神の宮を建て上げるように、働きを託してくださっています。そんな中、私たちのもとに、未だ福音を知らない、霊的に小さい人を主の許に招こうと、私たちに託そうとしてくださっています。そんな中、これら小さい者の一人に、どのように関わっていくのか…。私たちは、そのことを丁寧に考えなければいけないし、軽んじてしまってはいけないのだと思うのです。
《それでも私たちを》
ただ、同時に私たちの限界も感じます。本日の箇所で、イエス様はおっしゃいました。「つまずきは避けられない」(17:2)。この御言葉にあるように、私たちがどれだけ、思いをもって、配慮をもって、相手に関わっているつもりでも、私たちが予期しないことでつまずいてしまうことがあるのではないでしょうか。私たちはお互いに弱さや足りなさを抱えた者同士です。そんな中、どんなに思いがあっても、かみ合わなかったり、一つになれなかったり、限界もあるのだと思うのです。つまずきを避けたいと思いながらも、避けられない現実もあるのだと思うのです。そんな現実を思う時、何よりも考えさせられるのが、それでも私たちを信じて、用いようとしてくださっているイエス様の姿です。本日の箇所でもそうなのではないでしょうか。イエス様の前には、つまずかせてはいけないと言われながら、つまずいたり、つまずかせたりしてしまっている弟子たちがいたのだろうと思います。しかし、そんな弟子たちを見つめながら、それでも、イエス様は弟子たちと主の器として立て、福音宣教の御業を託そうとされていたのです。