詩篇77編
【指揮者によって。エドトンに合わせて。アサフの詩。賛歌。】
神に向かってわたしは声をあげ/助けを求めて叫びます。神に向かってわたしは声をあげ/神はわたしに耳を傾けてくださいます。
苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され/わたしの魂は慰めを受け入れません。
神を思い続けて呻き/わたしの霊は悩んでなえ果てます。〔セラ
あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。
いにしえの日々をわたしは思います/とこしえに続く年月を。
夜、わたしの歌を心に思い続け/わたしの霊は悩んで問いかけます。
「主はとこしえに突き放し/再び喜び迎えてはくださらないのか。
主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。
神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」〔セラ
わたしは言います。「いと高き神の右の御手は変わり/わたしは弱くされてしまった。」
わたしは主の御業を思い続け/いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け
あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら/あなたの御業を思いめぐらします。
神よ、あなたの聖なる道を思えば/あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。
あなたは奇跡を行われる神/諸国の民の中に御力を示されました。
御腕をもって御自分の民を/ヤコブとヨセフの子らを贖われました。〔セラ
大水はあなたを見た。神よ、大水はあなたを見て、身もだえし/深淵はおののいた。
雨雲は水を注ぎ/雲は声をあげた。あなたの矢は飛び交い
あなたの雷鳴は車のとどろきのよう。稲妻は世界を照らし出し/地はおののき、震えた。
あなたの道は海の中にあり/あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。
あなたはモーセとアロンの手をとおして/羊の群れのように御自分の民を導かれました。
《主を礼拝すること》
本日こうして、ご一緒に礼拝を献げることのできる恵みを心から感謝します。私たちは金曜日、思いもよらない出来事を経験しました。マグニチュード8.8(9に変更)という、日本の観測史上最大の地震を経験しました。あの時の恐ろしい揺れ・・・。そして、その後の余震や停電・・・。そして、現在は断水の被害が起こっています。ようやく電気が戻ってテレビを見てみれば、恐ろしいばかりの津波の被害を目の当たりにし、福島原発の被害状況に心配をされている方も多いのではないでしょうか。沿岸から大分離れた私たちでも不安になります。避難勧告の出された地域の人々の不安は、どれほどのものだったのだろうかと思います。そのように、この数日間、私たちはそれぞれ言葉にはできないような思いを過ごしてきたのではないかと思います。しかし、そんな私たちが今こうして、共に礼拝を献げようと集っています。私たちは今こそ、主を礼拝するということ、神を神とするということを学ばなければならないのだと思います。
《苦難の中で》
詩篇77編の冒頭の箇所を読む時、この詩篇の詩人が置かれていた状況というものが伝わってきます。ここには、「苦難」とか、「疲れ」とか、「呻き」とか、「悩み」という言葉が綴られています。そんな言葉から、この詩人が置かれていた状況というのは、決して順風満帆ではなかったのだと思わされます。これらの言葉にあるように、この時、詩人は苦難に襲われ、悩み、呻いていました。身体は疲れ果て、心もなえてしまっていました。詩人が具体的に、どのような苦難に置かれていたかについては、色々な解釈が考えられています。しかし、どんな状況であれ、この詩人の抱えていた思いは伝わってくるのではないでしょうか。私たちもたくさんの問題や悩み事に囲まれ、疲れ果て、心もなえてしまいそうになる・・・。そんなことがあるかも知れません。詩人は、そのような状況の中で、必死に神に祈り、助けを求めていました。しかし、神様からの答えは中々聞かれませんでした。ですから、詩人は、77:8-10で、神様は自分たちのことを「とこしえに突き放」されたのだろうかとか、もう自分たちを「喜び迎え」てくださることはないのだろうかとか、神様は「憐れみを忘れ」、私たちに対して、完全に「門を閉ざされたのだろうか」と悩んでいるのです。
《心の変化》
でも、本日の詩篇では、そのような詩人の心の内が少しずつ変わってくるのです。それは、77:12の御言葉がきっかけでした。詩人は、苦難の中、ずっと悶々とした思いを抱えながら、次第に心もなえてしまっていました。そんな状況の中で、詩人は主がこれまで自分たちにしてくださった御業を思い続けるようになっていったのです。そして、主のなさったことを一つ一つ口ずさみ始めていったのでした。すると、次第にこの詩人の思いが変えられていきました。それまで、目の前の問題に心がなえはて、「もうダメだ」とか、「神様も自分たちを見捨ててしまったのだろうか」とかしか思えなかった詩人が変えられていったのです。これまで神様が自分たちになさったことを思いかえしてみた時、神様はこれまでだって、自分たちを決して見捨てなかったではないか・・・。どんな状況からも救いだしてくださったではないか・・・。そんな思いが与えられ、77:14の「あなたの聖なる道を思えば/あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか」という告白に繋がっていくのです。私たちは、本日の詩篇の中から、是非、ご一緒に考えていきたいことは、この「思い巡らす」ということです。私たちは普段、どんなことを思い巡らしていますか。特にトラブルや悩みごとに突き当たった時、私たちはどんなことを思いめぐらしているでしょうか。
《思い巡らしつつ》
この数日間、本当に大変な経験を通らされてきましたが、私も含めて、多くの方の口から不思議と聞こえてくる言葉がありました。それは、「恵みだね」とか、「感謝だね」という言葉でした。たちは今、置かれている状況は、今尚、課題があり、困難があり、「苦難」や、「疲れ」や、「呻き」や、「悩み」が私たちの周りを取り囲んでいます。しかし、その中で、私たちは思いめぐらせていきたいと思います。実際、本日、こうして、共に礼拝を献げることができること一つをとっても、私は、本当に「恵み」や「感謝」を覚えずにはいられません。そのように、私たちは困難の中に置かれていますが、主の御業を思い巡らせながら、感謝を心に刻んでいきたいと思います。