2012年09月30日

「愛がとらえる時」

     ヨハネによる福音書4:1-24

さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答え
て、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

《あるサマリアの女性》
 本日の箇所に登場するサマリアの女性について、聖書は名前さえ書いていません。しかし、イエス様との色々なやり取りを読んでいく時、この女性について想像ができます。この女性は、色々な課題を抱えていました。そのことは、まずこの女性が井戸に水汲みに訪れたのが、正午頃たったという記述から推測できます。正午頃に水汲みに来るなんてことは、当時の習慣にはないことでした。水汲みと言えば、普通、朝方に行なうものたったのです。昼間は日差しが強すぎて、水汲みなどしていられませんでした。にも関わらず、この女性は正午頃に井戸に訪れました。それは何故かと言えば、おそらく、この女性は他の人たちに会いたくなかったのではないかと思います。イエス様との会話で、この女性が過去5回も結婚を繰り返し、現在は一人の男性と同棲をしていたことが分かります。そこに、どんな事情があったのか分かりませんが、この女性は、そんな経歴のゆえに、周りから冷ややかな目で見られたりしていたのではないでしょうか。そして、それゆえに、この女性も他の人たちとの交わりを避けていたのだと思います。それゆえ、彼女は人々が井戸に立ち寄らない正午頃に水汲みに来たのだと思うのです。
 《水汲みの時間》
 彼女は、そんなふうに常日頃、人目を避けるような生活を送っていましたが、それは、彼女にしてみれば、寂しいし、辛かったのだろうと思います。特に、そのことを感じるのが、水汲みの時間だったのではないでしょうか。人目を避けて、わざわざ水汲みが一番きつい正午に水を汲みに来る度、この女性は心底、「ああ、もうこんな苦しい生活嫌だ」と実感したりしたのではないかと思うのです。彼女がイエス様と出会ったのは、そんな思いを抱えていた時でした。イエス様は、ここで彼女に対して「水を飲ませて下さい」(4:7)と話しかけました。 しかし、正直、彼女はイエス様の呼びかけに戸惑っただろうと思います。本日の聖書の箇所を読んでも、イエス様の呼びかけに当惑しながら、接している彼女の様子が書かれています。しかし、この女性は、やがてその会話の中で、段々とイエス様の愛にとらえられ、変えられていったのです。
《井戸は深い》
 本日のイエス様と女性との会話の中で、印象的だなと思う彼女の言葉があります。それは、「井戸は深いのです」(4:11)という言葉です。ここで彼女はイエス様から「もしあなたが、私が誰か知っているなら、あなたの方から私に頼んで、「生きた水」を求めるだろう」(4:10)と言われたことに対して、「あなたが私に水をくださるですって、あなたはくむ物なんか、持ってないじゃないですか。井戸は深いんですよ」と答えているわけですが、私はこの女性の言葉を聞く時、単に井戸の水が汲める、汲めないの話だけではないのではないかと思います。何というのでしょう。「井戸は深いのです」という言葉の中に、この時の彼女白身の姿が象徴されているのではないかと思うのです。「井戸は深いのです」それは彼女自身の心そのものだったのではないでしょうか。彼女自身の心には、井戸の水のように簡単には汲み出せない問題がありました。彼女がこれまで歩んできた歩みの中で、経験したこと…。その中で、通らされてきた思いの中での、癒されていない傷、解決されていない問題、未だに恥ずかしいと思えてならないような事柄…。そんな事柄に覆われているかのような彼女の思いが心の奥には押しやられていたのです。そんな彼女の心の奥底に触れていくこと…。それは、簡単なことではありませんでした。そのように彼女の心には、簡単にはくみ出すことができない心の部分というものがありました。そんな中、「井戸は深いのです」という訴えは、彼女自身の叫びでもあるように思うのです。
 《さとき人はこれをくみ出す》
 ヨハネ福音書は、イエス様とサマリアの女性との会話を丁寧に記しています。私たちは、その会話において、イエスがまさに彼女の心をノックしながら、少しずつ、彼女自身の心の井戸を見出すように掘り下げていかれる姿を知らされるのではないでしょうか。最初は、何気ない頼み事から始まり、次第次第に核心へと掘り下げていかれているのです。旧約聖書の箴言20:5には次のような御言葉があります。「人の心にある計りごとは深い井戸の水のようだ、しかし、さとき人はこれをくみ出す」(箴言20:5)。まさにサマリアの女性は、この御言葉のようなイエス様との出会いを経験していったのではないかと思います。そんな中、未だかつて誰もふれてはくれなかった彼女の心の深みにある、魂の泉を汲み出されていったのです。

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2011年04月03日

「光は暗闇の中で輝いている」

ヨハネ1章5節
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。



《光は暗闇の中で》
「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)。私はこの御言葉を読む時、これまでは「光は――輝いている」というところの方に心が留まっていました。しかし、今回、改めて読みながら「光は――輝いている」の間の「暗闇の中で」という言葉に心が留まりました。何というのでしょう。私たちは暗闇を経験することによって、そこに輝いている光を知るということがあるのではないでしょうか。
《震災を通して》
今回の震災を通して、多くの経験をしました。震災後、教会に幾人かが集まってきたのですが、余震が激しかったので、会堂の中に入れるような状況ではありませんでした。しばらくは皆で車の中で過ごしていたのですが、日も暮れてきたので、食事を作ることになりました。まだ危険な状態でしたが、教会のガスコンロを使って、インスタントラーメンを作ることになりました。男性陣で、キッチンに入り、余震に警戒しながら、お湯を沸かしました。暗がりの中、黙ったまま、お湯を沸かしていました。いつ余震が来るか、警戒しながらの時間でしたが、不思議とあの時のことで覚えているのは、ガスコンロの炎の光です。普段、そんなにガスコンロの炎に注目することもないのですが、暗がりの中で、煌々と青白い光を放っているガスコンロの光を見ながら、綺麗だなと思っていました。その後、やっとできたインスタントラーメンを「美味い、美味い」と言って皆で食べました。しばらく経って、その日の夜はKさんの御好意で泊めてもらうことになったのですが、停電しなかったKさんのお部屋に入れてもらった時、まだ、こんなに明るくて、温かい場所があるんだということに感動を覚える思いでした。
 その後、教会に電気がついたり、水道が通ったり、色々なものが回復する度に、一つ一つ感動する思いでした。それまでだったら、皆、当たり前のようにあったものです。しかし、震災で、様々なものが損なわれ、真っ暗な状況にさせられる中、ガスコンロの光から始まって、一つ一つのものが回復していく様子に、一つ一つ輝きが灯るような思いでした。皆さんも同じような経験をさせられたのではないでしょうか。まさにそれは、暗闇の中で輝いている光との出会いなのではないかと思います。普通の状況だったら気づかなかったり、当たり前のように思えていたかも知れません。しかし、暗闇に置かれる中、実はそれら一つ一つが大切な光を放っていることに気づかされる・・・。そんな経験だったのだと思うのです。
《御言葉こそともし火》
「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」(詩篇119:105)。改めて今、この御言葉が私たちに響いてきます。私たちが置かれている状況は、今も困難な状況がありますし、先行きの見えない状況があります。そんな中、闇の中を歩んでいるかのような思いにさせられることさえあります。しかし、そんな状況に置かれている今、私たちはどれほど御言葉に励まされ、御言葉の中にある命や輝きというものを知らされているでしょうか。
3/11に地震があって、その2日後の3/13(日)の礼拝の中でその日のロージンゲンの御言葉を読みました。「お前たちの周囲に残された国々も、主であるわたしがこの破壊された所を建て直し、荒れ果てていたところに植物を植えたことを知るようになる。主であるわたしが、これを語り、これを行う」(エゼキエル36:36)。震災後、間もない状況で与えられたエゼキエル書の御言葉は、まさに私たちに呼びかけられている御言葉ではないだろうかと思いました。
その後、携帯電話が使えるようになって、私から皆さんの携帯のメールアドレスにロージンゲンの日々の御言葉を書いて送らせていただいています。皆さんに日々の御言葉を送りながら、私自身が御言葉に励まされています。改めて、「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」という御言葉が迫ってきます。
聖書の時代のともし火は、現在の懐中電灯のように、遠くまで照らせるものではありませんでした。自分たちの足もと位しか照らせませんでした。しかし、着実にその一歩一歩を照らしていました。同じように、御言葉が照らす光も、私たちの一歩一歩を照らす光です。今回、私たちは暗闇と思うような状況の中で、改めて、そのような御言葉の光に出会っているのではないかと思います。光は暗闇の中で輝いている・・・。むしろ、暗闇の中でこそ、なお私たちの中で輝き出すのです。
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