2011年04月24日

「もしも復活が」

 Tコリント15:12-22
キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。
死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。
死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。
そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。




《イエス・キリストの十字架と復活》
イースターは、イエス・キリストが十字架にかかり、死んで墓に葬られた後、三日後に復活したことを記念する日です。十字架と復活のメッセージは、私たちにとって最も大切なメッセージです。しかし、教会に来て間もない人にとっては、最も理解しがたいメッセージであるかも知れません。教会に来て間もない方がよく言われることがあります。「聖書のメッセージを聞く時、色々なメッセージは割と心にスーっと入ってきたりするのだが、イエス・キリストの十字架と復活になると、エッと思ってしまう」。実際それはやむ得ないことかも知れません。聖書を読みますと、使徒言行録に、復活のメッセージを語るパウロに対して、冷ややかな態度を取ったアテネの人々の姿が記されています(使徒17:32)。このように、2000年前の聖書の時代から、イエス・キリストの十字架と復活は、中々人々に受け入れられることがありませんでした。にも関わらず、不思議なのは、そんな一見、理解し難いはずの十字架と復活のメッセージが、2000年前から今日に至るまで、多くの人々の心を捕らえ、信じられ続けてきたという事実です。そして、この十字架と復活のメッセージを受け入れた人にとって、このメッセージは、かけがえのないものとなり、命となり、力となっているのです。
《もしも復活がなければ》
 本日の箇所でパウロは語りました。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(15:14)。この時パウロの周りには、死者の復活などないと主張する人たちがいました。そんな彼らに対して、パウロは「もし復活がないなら、自分たちの語ってきたメッセージは、根底から崩れ、意味のないものになってしまう。一切無駄になるんだ」とさえ語ったのです。パウロにとって、復活のメッセージはそれほどかけがえのないものであり、このことにかかっていたのです。
《復活に出会って、始めて意味を知る》
 私たちは改めて、イエス・キリストの十字架と復活の意味について考えていきたいと思います。復活があって始めて、私たちは福音のメッセージを受け止めることができるのですし、そのメッセージが意味のあるものになっていくのです。たとえば、信仰というものを考えても、それが言えます。復活があって、私たちは始めて、聖書が語る信仰を受け止めることができるのですし、意味のあるものとなっていくのです。
《聖書の信仰、希望、愛》
 聖書が語る信仰とは、私たちの内に、どんなに罪があったとしても、私たちが心砕かれ、悔い改め、イエス・キリストの十字架と復活を信じるなら、神の前で正しい者とされていくという信仰です。そのことをよく難しい言葉で、「信仰義認」と言われます。この「信仰義認」も復活があって、受け止めることができますし、意味のあるものとなっていくのです。罪人が義とされるなどということは、本来、聖書の考えからすればありえないことでした。そこには、まさに逆転の出来事がなければ成り立たない話でした。この逆転の出来事こそ、復活なのです。死者さえ生き返らせる神の恵みの業があって始めて、本当だったら死に至るはずの罪人が、命に与ることになっていくということができるのです。
 希望について考える時も同じです。復活を信じ、学ぶ中で、私たちは聖書が語る「どんな時にもつきない希望」を学ぶことができるのです。
 愛について考える時も同じです。イエス・キリストが、私たちに対する愛を表してくださったのは、あの十字架の上で、私たちの罪のために死なれたという出来事でした。しかし、十字架を経験するだけでは、とてもあの出来事が神の愛の出来事だと受け止めることができませんでした。考えてみたいと思います。弟子たちのことを考えてもそうでした。自分の愛する方が捕えられ、十字架に架けられ、殺されてしまう・・・。その様子だけを見て、神様の愛を感謝しますとはとても思えなかったのだと思います。それより、目の前に起こった出来事に悲しんだり、失望したり、イエス様を捕えていった人々を呪ったり、自分たちが主を裏切ったことの後悔で、一杯だったのではないでしょうか。しかし、そんな彼らが復活の出来事に出会いました。その時、弟子たちは十字架の本当の意味を知り、神の愛を学ぶことができたのです。このように、信仰、希望、愛、それぞれを考えてみても、復活を信じ、学ぶ中で、それを本当の意味で知ることができるのです。
posted by 郡山コスモス通りキリスト教会 at 00:00| コリントの信徒への手紙 T