イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
《小さな灯、それでも》
先週の日曜日のことですが、礼拝の後、色々なことをしていたところ、その間ずっと息子が会議室で絵を描いていました。 しばらくして「こんなの描いたよ」と言って絵を見せてくれました。一枚目は年賀状のへびの絵でした。二枚目はカラスの絵でした。タイトルは「あの空を夢みるとべないカラス」というものだそうです。そして、三枚目が暗闇の中に光るランタンを描いた絵でした。タイトルは、「小さな灯、それでも世界をてらしてる」というものでした。私は特に「小さな灯、それでも世界をてらしてる」という絵を見ながら、本当にそうだなと思いました。本日はクリスマス礼拝を過ごしていますが、クリスマスを祝うということはどういうことでしょうか。単にきれいな飾りで飾ることでしょうか。ケーキやご馳走などを食べることでしょうか。プレゼントをもらうことでしょうか。そうではありません。私たちの周りには、色々なことがあるかも知れません。目の前の現実には、不安なこと、心配なこと、先の見えないこと、わずらいごとなんかがあるかも知れません。しかし、そんな状況の中で、あらゆる歴史を超える救いの業として、クリスマスの出来事が起こされました。そのように、私たちは、クリスマスの出来事を通して、「小さな灯、それでも世界をてらしてる」というともしびを見出していくのです。
《クリスマスのともしび》
本日の箇所というのは、まさにそのような「クリスマスのともしび」を見出していった人たちの物語といえるのではないでしょうか。本日の箇所に記されているのは、東方の博士たちの物語です。ここには、東方の博士たちがユダヤ人の王が生まれるというしるしの星を見つけて、旅に出たことが記されています。彼らは遠方から救い主のしるしを見つけ、救い主に会うために旅に出たのです。
《婦人の質問》
私は、この博士たちの話を読む時にいつも思い出すことがあります。以前、私は一人の婦人からこんな質問を受けたことがあります。 「自分はクリスチャンではないが、聖書に興味があるし、聖書のメッセージにも惹かれる。しかし、信仰の世界に、一歩踏み出せない。その一番の理由は、今の不安定な世界、矛盾だらけの世界を思う時、本当に神はおられるのだろうか?と思うからだ。そのことについてどう思うか」。私はその婦人の言葉を聞きながら、率直な質問だなと思いました。私はその婦人に「私にはとても答えられません」とお答えました。「私たちの思いを遥かに超えた神様の深い御旨があるのだろうと思います」と答えたのです。「ただ、同時に思うことがあります」と言って、付け加えさすていただきました。「私たちの目の前の世界が、どのような世界であったとしても、それでも神はおられるということに変わりはありません。そして、この世界に、神様は私たちに救いのしるしを示し続けているのです」。そのようにお話した後で、なおお話ししたのが、東方の博士たちの物語でした。
《神の救いのしるしを探しに》
博士たちの時代というのは矛盾と混乱の時代でした。ローマ帝国が世界を侵略し、支配していました。そんな中、ローマ皇帝は、自分こそ神だと宣言していました。当時の人々から見れば、もはや「本当に神様などいるのだろうか」と思ってしまうような状況でした。しかし、そんな世界の中にあって、神が救いのしるしを示され、イエス・キリストを送られた…。それがクリスマスの出来事でした。博士たちはその中で、神の救いのしるしを探しにでかけたのです。聖書が招いているのは、この博士たちの姿に倣っていくことなのだと思います。目の前の状況を見て、「神様本当にいるの」とか、「神様信じられない」という思いだけで立ち止まっていたら、聖書のメッセージは聞こえません。私たちには分からないことがあったり、図り知ることができないことがありますが、それでも、神様は、今、この状況の中にも変わらずに生きて働いてくださっていることを信じ、この世界の中に救いのしるしを示してくださる神様を信じる…。そんな中、博士たちのように踏み出していく…。それが、聖書が招いている私たちの信仰の歩みなのです。
今、私たちが立たされている状況、現実には、色々なことがあります。これからの歩みもそうなのだと思います。そんな中、時に、先が見えず、つまずきそうになってしまうことがあったり、神様のことが分からなくなってしまうようなこともあるかも知れません。
しかし、その中で、神様は今、この状況の中で、今も変わらずに生きて働いてくださっていることを覚えていきたいと思います。