2012年12月23日

「クリスマスのしるし」

     マタイによる福音書2:1-12

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。


《小さな灯、それでも》
 先週の日曜日のことですが、礼拝の後、色々なことをしていたところ、その間ずっと息子が会議室で絵を描いていました。 しばらくして「こんなの描いたよ」と言って絵を見せてくれました。一枚目は年賀状のへびの絵でした。二枚目はカラスの絵でした。タイトルは「あの空を夢みるとべないカラス」というものだそうです。そして、三枚目が暗闇の中に光るランタンを描いた絵でした。タイトルは、「小さな灯、それでも世界をてらしてる」というものでした。私は特に「小さな灯、それでも世界をてらしてる」という絵を見ながら、本当にそうだなと思いました。本日はクリスマス礼拝を過ごしていますが、クリスマスを祝うということはどういうことでしょうか。単にきれいな飾りで飾ることでしょうか。ケーキやご馳走などを食べることでしょうか。プレゼントをもらうことでしょうか。そうではありません。私たちの周りには、色々なことがあるかも知れません。目の前の現実には、不安なこと、心配なこと、先の見えないこと、わずらいごとなんかがあるかも知れません。しかし、そんな状況の中で、あらゆる歴史を超える救いの業として、クリスマスの出来事が起こされました。そのように、私たちは、クリスマスの出来事を通して、「小さな灯、それでも世界をてらしてる」というともしびを見出していくのです。
 《クリスマスのともしび》
 本日の箇所というのは、まさにそのような「クリスマスのともしび」を見出していった人たちの物語といえるのではないでしょうか。本日の箇所に記されているのは、東方の博士たちの物語です。ここには、東方の博士たちがユダヤ人の王が生まれるというしるしの星を見つけて、旅に出たことが記されています。彼らは遠方から救い主のしるしを見つけ、救い主に会うために旅に出たのです。
《婦人の質問》
 私は、この博士たちの話を読む時にいつも思い出すことがあります。以前、私は一人の婦人からこんな質問を受けたことがあります。 「自分はクリスチャンではないが、聖書に興味があるし、聖書のメッセージにも惹かれる。しかし、信仰の世界に、一歩踏み出せない。その一番の理由は、今の不安定な世界、矛盾だらけの世界を思う時、本当に神はおられるのだろうか?と思うからだ。そのことについてどう思うか」。私はその婦人の言葉を聞きながら、率直な質問だなと思いました。私はその婦人に「私にはとても答えられません」とお答えました。「私たちの思いを遥かに超えた神様の深い御旨があるのだろうと思います」と答えたのです。「ただ、同時に思うことがあります」と言って、付け加えさすていただきました。「私たちの目の前の世界が、どのような世界であったとしても、それでも神はおられるということに変わりはありません。そして、この世界に、神様は私たちに救いのしるしを示し続けているのです」。そのようにお話した後で、なおお話ししたのが、東方の博士たちの物語でした。
 《神の救いのしるしを探しに》
 博士たちの時代というのは矛盾と混乱の時代でした。ローマ帝国が世界を侵略し、支配していました。そんな中、ローマ皇帝は、自分こそ神だと宣言していました。当時の人々から見れば、もはや「本当に神様などいるのだろうか」と思ってしまうような状況でした。しかし、そんな世界の中にあって、神が救いのしるしを示され、イエス・キリストを送られた…。それがクリスマスの出来事でした。博士たちはその中で、神の救いのしるしを探しにでかけたのです。聖書が招いているのは、この博士たちの姿に倣っていくことなのだと思います。目の前の状況を見て、「神様本当にいるの」とか、「神様信じられない」という思いだけで立ち止まっていたら、聖書のメッセージは聞こえません。私たちには分からないことがあったり、図り知ることができないことがありますが、それでも、神様は、今、この状況の中にも変わらずに生きて働いてくださっていることを信じ、この世界の中に救いのしるしを示してくださる神様を信じる…。そんな中、博士たちのように踏み出していく…。それが、聖書が招いている私たちの信仰の歩みなのです。
 今、私たちが立たされている状況、現実には、色々なことがあります。これからの歩みもそうなのだと思います。そんな中、時に、先が見えず、つまずきそうになってしまうことがあったり、神様のことが分からなくなってしまうようなこともあるかも知れません。
しかし、その中で、神様は今、この状況の中で、今も変わらずに生きて働いてくださっていることを覚えていきたいと思います。
posted by 郡山コスモス通りキリスト教会 at 00:00| マタイによる福音書

2012年01月01日

「二人または三人集まるところに」

マタイによる福音書18:18-20
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。


《二人または三人集まるところに》
「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:19-20)。
本日の箇所というのは、よく「教会の一番原型となる姿がここに表されているんだ」と言われます。私はこれまで何度となく、この箇所を読んできました。しかし、今回、改めてこの箇所を読みながら思ったのは、ここで、主に祈り求めている二人…。あるいは、イエス様の名前によって集まっている二、三人というのは、どういう思いの中で、集まっているんだろうということです。皆さんは、どのようなイメージを抱くでしょう。何の気なしに集まっているのでしょうか。とにかく、それぞれ自分の思いや願いを主に訴えているのでしょうか。私は必ずしもそうではないと思います。
《罪を犯した兄弟への忠告》
本日の箇所というのは、18:15-17のつながりの中で語られています。ここには「罪を犯した兄弟への忠告」が語られています。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(18:15-17)。
 このメッセージがあって、続いて、二人が地上で心を一つにして求める、二人または三人がイエス様の名前によって集まっていくということが語られているのです。ここのところから思うのは、ここで集まって、主に願い求めている人たちというのは、何の気なしに集まっているのでも、とにかく、それぞれ自分の思いや願いを主に訴えているのでもないということです。それぞれが色々な思いを抱えていたんじゃないでしょうか。自分の教会の兄弟が罪を犯している…。そんな兄弟に対して何かしらの忠告をしなければならない…。そんなふうに、今、置かれている状況や人間関係で色々なことで悩んだり、課題を抱えていたりしながら、色々な思いを互いに抱えながら、集まっていたのだと思うのです。問題だらけの今の現実、この地上で、切実な思いで、心を重ね合わせながら主を呼び求めながら、イエス様の名前によって共に集っている状況なのです。そして、それが教会としての姿に挙げられているのです。
《色々な思いを抱えながら》
 このことを思う時、色々なことを思います。私たちの教会…。そこにはそれぞれ、互いに色々な思いを携えているのだと思います。今、置かれている状況や人間関係で色々なことで悩んだり、課題を抱えていたりする…。そんなふうに色々な思いを互いに抱えながら、そんな私たちが今、この場所に集っているのではないでしょうか。そんな中、場合によっては、教会の中においても色々なことがあるかも知れません。18:15-17にあるように、互いに、過ちや失敗をしてしまって、心を痛めるようなことがあったりするかも知れないと思います。しかし、そんな色々な思いを抱えながら、私たちはこの場で互いの思いを重ね合わせながら、主を呼び求めていく…。色々な状況の痛みを覚えながらも、それでもイエス様の名のもとに集まっていく…。それが私たちの教会なのだと思うのです。
《教会とは何か》
 この教会の姿というのを、私たちは大切にしていきたいと思います。何というのでしょう。昨年を振り返っても思うのは、どうしてもバタバタとするようなことが続いている状況で、お互いの思いを分かち合ったり、確認したりすることが丁寧にできなかったりすることがあるのではないかということです。皆、それぞれ抱えている色々な働きがある中で、十分に意思を確認できない様な時もあるかも知れなかったりするのではないでしょうか。あるいは様々な事情で、どうしても教会に集うことができない…。距離的にコミュニケーションが十分に取れなかったりする状況もあります。ともすると、そんな中、どうしても、互いの思いがあっちに行ったり、こっちに行ってしまいかねないような状況があったりするのではないかと思います。でも、そんな時こそ、私たちは教会として、共に立つことが必要です。今、この時こそ、「教会とは何か」ということを大切に心に刻みながら歩んでいくことが大切なのだと思うのです。
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2011年12月25日

「クリスマスの扉 博士たちの場合」

マタイによる福音書2:1-12
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。



《婦人の質問》
 今年最後の聖書の箇所として選ばせていただいたのが、東方の博士たちの物語です。私は、この記述を読む時、思い出すことがあります。数年前になりますが、あるところでクリスマスメッセージをさせていただく機会がありました。その時、控え室で待っていたところ、一人の婦人から質問を受けました。その婦人は、まだクリスチャンではありませんでした。しかし、聖書に興味があるそうで、クリスチャンの方々と一緒に、聖書を学んでいたのだそうです。ただ、そのように聖書に惹かれながらも、信仰の世界に、どこかしら踏み込めない自分がいる・・・。その一番の理由というのは、今の不安定な世界、矛盾だらけの世界を思う時、本当に神はおられるのだろうか?神は何故このような世界を造られたのだろうか?そんなふうに思ってしまうからだとおっしゃっていました。
《神の救いのしるし》
私はその婦人に「私にはとても答えられません。私たちの思いを遥かに超えた神様の深い御旨があるのだろうと思います」と答えました。ただ、少しだけ付け加えて言わせていただきました。「このことは、質問の答えとはならないかも知れませんが、大切なこととして思うことは、私たちの目の前の世界が、どのような世界であったとしても、それでも神はおられるということには変わりはないということです。そして、この世界のただ中に、神は私たちに救いのしるしを示し続けているのです」。そのように、お話したのです。そして、なおもこんなお話をさせていただきました。それは、まさに最初のクリスマスこそ、そのような状況だったということです。矛盾だらけの世界、混乱の世界・・・。それが2000年前のユダヤの国を取り囲む状況でした。その時代、ローマ帝国が世界中を侵略、制圧し、世界中を支配下に置いていました。その強大な権力は世界を圧巻し、その頂点に立つローマ皇帝は自分こそ神だと宣言していました。まさに、当時の人々から見れば、もはや「本当に神様などいるのだろうか」と思ってしまう・・・。そのような世界だったのです。しかし、そんな世界の中にあって、神が救いのしるしを示され、イエス・キリストを送られた・・・。それがクリスマスの出来事でした。そして、東の国の博士たちは、神の救いのしるしを見つけ、そのありかを求めて、旅に出ていったのです。そんな中、信仰について考える時、私たちにとって大切なテーマは、「神はおられるのだろうか」と問うことよりも、むしろ、「神は一体今、この世界のどこに救いのしるしを置かれているのだろうか」ということなのではないでしょうか。私たちが、そのような視点を持つ時、私たちもかつての博士たちと同じように、今の世界にあって、神に出会うことができるのではないでしょうか。そんなお話しをさせていただいたのです。
《今回の震災を通して》
 ちょっと分かりにくい話だったかも知れません。でも、大切なことなのではないかと思います。実際、この婦人の言葉というのは、私たちの周りでしばしば聞く声なのではないでしょうか。そして、その声というのは、今年一年でさらに深刻な問いとなっているのではないかと思います。今回の震災を通して、「信仰が分からなくなった」「神様なぜ」という声があります。正直、そんな声に対して、明確な答えは出ません。分からないことばかりです。しかし、私たちが心に覚えていたいのは、それでも「ここに主はおられる」ということです。「神様なぜ」と思えてしまうような状況のただ中に、主はおられる…。そして、大切なのは、神様はおられるだろうかということを問うことより、神様は、今、この私たちの現実の中に、どのように働いておられるのか、どこに救いの道を開かれようとしているのか、どこに向かわれようとしているのかということではないでしょうか。神はこの私たちの現実のどこに救いのしるしを置かれているのだろうかということなのではないかと思うのです。
《博士たちの旅に連なる》
 そんな中、この東の国の博士たちの旅というのは、私たちの信仰の歩み、そのものだと言えるかも知れません。博士たちは、必死になって、「この世界のどこに神の救いのしるしが現されたのか」「どのようにして神の救いの業が始まったのか」と探して旅に出かけました。私たちの信仰の歩みは、この博士たちの旅に連なっていくことではないでしょうか。「今、私たちが立たされている現実のどこに、救いが置かれているのか」。時に迷いながら、立ち往生しながら、今の時代に示される救いのしるしを求め続けていく・・・。それが私たちの歩みなのだと思うのです。
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2011年12月11日

「クリスマスの扉 ヨセフの場合」 

マタイによる福音書1:18-25
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。



《マリアの妊娠》
 本日の箇所は、ヨセフの物語です。ヨセフは大工職人でした。そんな彼がある時、結婚することになりました。相手は、若く初々しいマリアという女性でした。ヨセフは、マリアに比べて高齢だったと言われています。彼はこれまで苦労して働きながら、ようやく歳を重ねて小さな幸せを見つけ、念願の安らぎの場所を見つけた…。それがマリアとの結婚だったのかも知れません。ヨセフにしてみれば、これから、マリアと共にささやかでも幸せなマイホームを築いていきたいという思いを持っていたのではないかと思います。しかし、そんなヨセフにとんでもない出来事が起こりました。結婚することになっていたマリアが原因不明の理由でみごもったのです。
《ヨセフの決断》
 それまでの幸せな思いが一気に奈落の底にでも突き落とされたような思いだったかも知れません。身に覚えがない、いい名づけの妊娠・・・。このことをどう解釈したらよいのか・・・。正直のところ、思いたくもありませんが、マリアに対して、疑いの眼差しを注がざるを得ませんでした。このことはヨセフ自身をどれだけ苦しめ、傷つけたでしょうか。このとき、ヨセフはまだ、マリアの身に本当に起こったことを知りませんでした。神がマリアの身に救い主を宿したことなど、想像もできなかったのです。色々考えた結果、ヨセフが考えたのが、マリアとひそかに縁を切ろうということでした。1:18-19の数行に書かれている言葉の中に、どれだけのヨセフの葛藤や悩みがあったのだろうかと思います。事実を知ったことの驚きから始まって、ショックで立ち尽くしたり、感情的になったり、あれこれ考えながら戸惑ったり、悩んだり、きっと誰にも分からないような場所で、あれこれと色々なことを考えながら、悩みに悩みぬいていたのではないかと思うのです。
《御使いの言葉》
 そんなふうに、悩んだ末にマリアと離縁することを決めたヨセフに対して、主の御使いが現れました。そして、御使いは、ヨセフに対して、こうしなさいと、ヨセフが選ぶべき道を伝えたのです。それはヨセフがそれまで散々模索した方法とは全く違う道でした。「マリアと結婚し、妻として迎えなさい」御使いはそのように伝えたのです。
《受け止められない言葉》
御使いの告げた言葉というのは、ヨセフにとって、そんなに簡単に聞ける言葉ではなかったのではないかと思います。これまで、色々悩んで、考えて、ヨセフは自分なりに正しいと思って決めたことがありました。自分で決めたことを今更変えるなんてこと、中々できなかったのではないかと思います。また仮に変えるということを考えたとしても、御使いの告げる言葉に従うことは中々できなかったのではないかと思います。マリアを妻として迎えなさいと言われても、感情的に納得できないと部分もあったでしょうし、実際にマリアを妻として迎えたら、どうなるか…。色々な問題が湧き上がってくることも想像できました。考えただけでも心配事ばかり湧き上がってきたのではないでしょうか。そんな状況の中で、ヨセフは御使いに告げられた神様の御言葉を聞くことになったのです。
《御言葉を聞くということ》
 本日の箇所から、神様の御言葉を聞くということは、どういうことなのかということを考えさせられます。御言葉は、時に私たちの思いとは、違った方向を指し示すことがあります。私の思いもよらなかった方向、あるいは薄々こっちの方がいいんじゃないかと分かっていたけど、実は避けようとしていた方向を指し示すようなこともあるのです。そして、そのような神様の御言葉を聞くというのは、本当に困難です。自分の思いや考えで一杯一杯になっている時には、中々聞けなかったりするかも知れません。本当に心を砕いて、主の前に静まっていこうとしないと聞くことができなかったりするかも知れないと思います。
《恐れるな》
しかし、覚えていたいことがあります。私たちが、私たちなりに本気で御言葉を聞こうとして歩もうとする時、たとえそれが、自分の思う方向、自分の思い描いていた歩みと違っていても、そこに踏み出そうとしていく時、聞こえてくる声があります。それは、ヨセフに語られた「恐れるな」という声です。私たちが御言葉に生きようとしていく時、この主の呼びかけが私たちの心を覆います。平安が私たちを包むのです。
posted by 郡山コスモス通りキリスト教会 at 00:00| マタイによる福音書