2012年06月10日

「苦さの中から」

         ルツ記1:1-22


士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。
その人は名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった。彼らはモアブの野に着き、そこに住んだ。 夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。息子たちはその後、モアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツといった。十年ほどそこに暮らしたが、マフロンとキルヨンの二人も死に、ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された。
ナオミは、モアブの野を去って国に帰ることにし、嫁たちも従った。主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを彼女はモアブの野で聞いたのである。 ナオミは住み慣れた場所を後にし、二人の嫁もついて行った。
故国ユダに帰る道すがら、ナオミは二人の嫁に言った。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」ナオミが二人に別れの口づけをすると、二人は声をあげて泣いて、言った。「いいえ、御一緒にあなたの民のもとへ帰ります。」
 ナオミは言った。「わたしの娘たちよ、帰りなさい。どうしてついて来るのですか。あなたたちの夫になるような子供がわたしの胎内にまだいるとでも思っているのですか。わたしの娘たちよ、帰りなさい。わたしはもう年をとって、再婚などできはしません。たとえ、まだ望みがあると考えて、今夜にでもだれかのもとに嫁ぎ、子供を産んだとしても、その子たちが大きくなるまであなたたちは待つつもりですか。それまで嫁がずに過ごすつもりですか。わたしの娘たちよ、それはいけません。あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」
 二人はまた声をあげて泣いた。オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」
 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」 同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。
 二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた。
 ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけてくると、ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」
 ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た。二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった。

《讃美が豊かにされる》
 本日は讃美特別礼拝です。本日は、共に「讃美が豊かにされる」ということについて考えていきたいと思います。私たちの中で「讃美が豊かにされる」ということは、何も新しい讃美歌を知ったということだけではないのだと思います。色々な経験を通らされる中、新たな神様との出会いが与えられたり、恵みの発見をしていく…。そんな中、私たちの神様への讃美の思いがより深められ、確かなものとされていく…。そう言った意味でも、讃美が豊かにされていくということがあるのだと思います。そして、本日お読みした聖書の箇所は、そんな讃美について教えられる箇所ではないかと思います。
 《自分はマラだ(苦い)》
 本日の箇所に登場するナオミは、かつてベツレヘムで夫のエリメレクと共に何不自由のない生活を送っていました。「出て行くときは、満たされていた」(1:21)と書かれていますから、ある程度生活も裕福だったのだと考えられます。 しかし、飢饉が国を襲ったので、ナオミたちはベツレヘムを出て、モアブの地に移り住むことになりました。ナオミたちはこのモアブの地に、自分たちの新しい生活を夢見ていたことだろうと思います。しかし、思うようにはなりませんでした。ナオミは夫に先立たれ、その後、頼りにしていた二人の息子にも先立たれてしまうのです。ナオミは自分たちの期待を無残に崩され、全てのものを失い、無一文になって、ベツレヘムに帰ってくるしかなくなってしまいました。夫に先立たれ、二人の息子を失い、天涯孤独になってしまったナオミの心境は計り知れないと思います。傷は深く、心は何をもっても満たすことはできませんでした。そんなナオミの思いが1:20-2の御言葉には詰まっているのではないでしょうか。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい日に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに」(1:20-21)。ナオミはこの時、自分はマラだ(苦い)と語りました。これまでの様々な歩みで、苦々しいことばかりを経験し、自分の人生は苦い、苦しみばかりだと思っていたのです。そんな中、自分の名前でさえ、ナオミ(快い)とは言いたくなかったのです。
 私たちはこのナオミの姿を見て、どう思うでしょう。「何もそんなふうに言わなくても」と思うでしょうか。色々な意見があるかも知れません。 しかし、少なくても、この時のナオミにとって、自分の今の状況はそのようにしか見ることができませんでした。そして、それはおそらくナオミ自身にしか分からないような思いだったのではないかと思います。この時、ナオミは「主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされた」と考えていました。ナオミは「自分は幸せにはなれないんだ」「不幸にさせられる運命なんだ」そんな思いに捕らわれてもいたのです。辛い経験や悲しい経験が重なってしまうと、私たちはそんな思いにさせられてしまうことがあるのではないかと思います。もう何かもが悪い方向にしか進まないように思えてしまう…。自分は幸せにはならないんだという思いに縛られてしまう…。そんな思いの中に置かれてしまうことがあるのではないでしょうか。ナオミはまさにそうでした。 しかし、主はそんなナオミの人生を取り扱ってくださったのです。
 《嗣業の地から》
 ルツ記には、そのように、人生のどん底から不思議な神の取り扱いで変えられていったナオミの物語が記されています。そんな中、覚えていたいことがあります。それは、ナオミがそのように神様の取り扱いを受けた最初です。ナオミは、モアブの地から、自分たちの嗣業の地であったベツレヘムに戻っていきました。そこから、神の御業は起こされていったのです。ここに大切なメッセージがあるのだと思います。嗣業の地というのは、神様がイスラエルの民に与えた土地です。神様は、かつてイスラエルの民それぞれに土地を与え、「あなたはここで信仰に生きなさい」「ここであなたを祝福する」と召されていきました。それが嗣業の地です。そんな中、ナオミたち夫婦は、自分たちの土地に飢饉が起こると住み難いということで、嗣業の地を離れてしまいました。しかし、モアブの地で立ち行かなくなって、仕方なく自らの嗣業の地に戻ってきました。それは決して喜びの帰宅ではありませんでした。 しかし、神様の御業は、そこから起こされていき、ナオミは豊かな讃美(2:20)に生かされていったのです。
posted by 郡山コスモス通りキリスト教会 at 00:00| ルツ記