2011年06月12日

「新しい始まり」

使徒言行録2:1-13
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
《霊の息吹》
私たちは、よく、誕生日のイメージとして、誕生ケーキのロウソクに息をフーっと吹きかけている場面を思い描くことがあるのではないでしょうか。誕生会などでは一番盛り上がる場面です。本日の箇所に記されている教会の誕生の出来事も、どこかそれに重なってくるところがあるかも知れません。ここには、ペンテコステの際に、辺り一面、激しい風が吹いてくる音が天から聞こえたということが記されています(2:1-2)。この「風」というのは、元々のギリシア語で「息」と訳すことのできる言葉です。このように、教会の誕生の場面でも、フーっと息が吹かれている情景が記されているのです。主なる神の霊の息吹が人々に吹きかけられているのです。
《形づくられていた人間》
 神様の息吹きが吹き入れられ、命が誕生する・・・。そのことを思う時、重なってくるのは、創世記に記されている「最初の人アダムが創造された場面」です(創世記2:7)。この時、主なる神は、土の塵で形づくった人間に息を吹き入れられ、アダムを生み出されました。息を吹き入れる前に、すでに形づくられていたアダムは、おそらく頭や足や手や内臓など、あらゆる身体の部分ができていたのではないかと思います。しかし、それで人が誕生したわけではありませんでした。見た目の形だけが備わっている段階では、アダムは生きた存在ではなかったのです。形づくられた人間に、主なる神が息吹を吹き入れられた時、アダムは生きる者となったのです。
《生きる者に》
 このことは、本日のペンテコステの箇所についても言えます。本日の箇所には、弟子たちが集まっていた様子が記されています。彼らは、すでにそこで祈ったり、神様を礼拝したりしていました。形とすれば、もうすでに教会になっているじゃないか・・・。そんなふうに考えることもできるのではないかと思います。しかし、そうではありませんでした。彼らの交わりが、真に教会とされるためには、決定的なことが必要でした。それは、創世記2:27と同じでした。最初の人アダムに聖霊の息吹が吹き込まれた時、アダムが生きる者となったように、イエス様の弟子たちの交わりに、聖霊の息吹が吹き込まれた時、初めて、彼らの交わりは、神の教会として誕生したのです。
《教会とされていくとは》
 このように、教会が教会とされるのは、その教会の中に、聖霊の命の息吹が吹き込まれることによってです。形が整っていれば、それで終わりではなく、形では捕らえられない部分、見えない部分が大切なのです。以前、私たちの教会では、教会組織をする時、教会組織のためにはどんな条件を満たすことが必要かということを話したことがあります。「教会予算がこれ位じゃないか」とか、「礼拝出席がこれ位になったら、教会組織ができるんじゃないか」とか、色々なことを話し合いました。それらも目安として大切なことです。ただ、それはあくまで教会としての形を作っていく作業なのだと思います。私たちの交わりが真に教会とされるということはそういうことではありません。私たちが集っている、この交わりに主が働いてくださり、主の息吹が注がれる・・・。そのことによって、私たちの交わりは、真に教会とされていくのです。
《十字架に生かされていく》
 今回の東日本大震災を受けて、様々な支援の働きが起こされています。そんな中、私たちは被災教会として、祈りに覚えられ、支えられていますが、同時に、私たちも周りに対して何かできないだろうか、模索しています。そんな中、先日は避難所に行ってきました。そのような働きから始めているのですが、支援の働きに関わる中、しばしば耳にする声があります。それは、「自分たちは教会として何ができるだろうか」という声です。私自身、いつもそのような思いを持ちながら、関わっています。しかし、本日の箇所を読みながら、ハッとしました。「自分たちは教会として何ができるだろうか」と考えて、「教会らしいプログラム」を考えていくことも大切かも知れません。しかし、何よりも、私たちの交わりを教会としてくださるのは、私たちの力ではなく、聖霊の業なのです。まずそのことをきちっとわきまえることが必要なのではないかと思います。何か形ばかり整えて、らしくあろうとするよりも、私たち一人一人が遣わされている場にあって、様々な事柄に出会う中、イエス様の十字架に生かされていくことの方が大切なのだと思うのです。
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2011年04月17日

「ついて来なさい」

使徒言行録12:1〜19
そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、
ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。
ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。
こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。
ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。
すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。
天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。
それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。
第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。
ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」
こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。
ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。
人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。
しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。
ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。
夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。
ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。



《初代教会の危機》
本日の箇所は、初代教会を襲った危機の物語です。ヘロデ・アグリッパ一世という人が教会を激しく迫害しました。そんな中、十二弟子の一人ヤコブを捕え、殺し、さらに多くの人々を迫害し、ついに初代教会のリーダーであるペトロを捕らえたのです。ヘロデは過ぎ越しの祭の後で、ペトロを人々の前に引き出し、処刑するために、牢獄につないでおくことにしました。
《眠りこんでいたペトロ》
 聖書には、ペトロが二本の鎖でつながれ、二人の兵士に囲まれ、眠っていた様子が記されています。普通、自分が処刑されるかも知れない日の前の晩に眠ることなどできないのではないでしょうか。ペトロがこの時、どれだけ疲れ果てていたのかということを知らされます。これまでペトロは牢獄の中で、散々悩んだり、恐れや不安を抱きながら、眠れない日々を過ごしていたのではないでしょうか。そんな中、精も根も尽き果てて、全ての力を失なってしまい、眠りこんでいたのではないかと思うのです。まさにペトロは絶望的な状況の中で、悲しみの末に、眠りこけていたのです。すると、そんなペトロの傍らに天使が現われました。そして、天使は、この牢獄を、光で照らし出したのでした。
《そばに立ち、光が照らした》
ここに書かれている「すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした」(12:7)の御言葉が心に留まります。ペトロは、この時、絶体絶命と言える状況、もはや「もうだめだ」と諦めるしかない状況にありました。しかし、そこにも、天使が共にいて、ペトロのいた場所を光で照らした、と聖書は語るのです。まさに、ここには、聖書が私たちに約束してくださっている信仰の世界が表されているのではないでしょうか。私たちの歩みには、色々なことがあります。心が激しく揺さぶられる経験も、決して楽観視することができないような場面にぶつかることも、八方塞がりの中で、何をどうすればよいのか分からなくなってしまうような状況に置かれてしまうこともあります。信仰の道を選びとったから、必ずしも、いいことばかりが起こるということではないかも知れません。しかし、私たちがイエス・キリストに出遭った時、神を信じた時、神が私たちに約束されている事があります。それは、このこと・・・。どんな状況の中でも、そこにも光がある・・・。神が私たちと共にいてくださる・・・。それが、神が私たちに約束されている信仰の世界なのです。私たちはこのことを知っていたいし、信じていたいと思うのです。
《一歩一歩の救い》
 主の天使は、ペトロを救い出すために、「急いで起き上がりなさい」と語り、その後、「帯を締め、履物を履きなさい」を言いました。ペトロは天使の言われるままに、帯を締め、履物を履きました。また、上着を着て、ついていきました。しかし、ペトロはこの時、自分がしていることが正直、よく分かっていませんでした。目の前で起こっていることが幻であるかのようにさえ思えていたのです。見方によっては、全く間抜けな話のように思えるかも知れません。ペトロは、自分の身に起こっていることが、何が何だか分からずに、言われるままに、起き上がって、帯を締め、履物を履き、上着を着て、ついていきました。自分が何をしているのか、何のためにこんなことをしているかも良く分かっていませんでしたが、ようやく、全てのことが終わって、振り返った時、初めて、自分は守られてきたんだ・・・。救い出されたんだということに気づかされたのです。
本日のペトロの姿というのは、一見すると、間抜けにさえ思えますが、実は、ここには、主の救いの出来事に与っていく私たちのリアルな姿というものが現されているのではないかと思います。私たちは時に色々な困難に直面した時、神に祈ります。神の御業を求めます。そんな中、色々な出来事を経験することがあるでしょう。しかし、中々、すぐにその問題が解決することがないかも知れません。それはちょうど、ペトロがすぐに牢獄から出たわけではなく、一歩一歩自分の足で歩きながら、牢獄から出て行った姿に重なってくるのではないでしょうか。私たちの実感としては、先の見えない状況を進んでいるように思えているかも知れません。しかし、その一歩は着実に解決に向かって歩みを進めているのです。大切なことは、主の招きに聞き従うことです。ペトロは天使の呼びかけられる言葉の意味が分かっていませんでしたが、とにかく、語られる声に従っていきました。その結果、ペトロは救われたのです。私たちも主の呼びかけに応えて、一歩一歩従っていきたいと思います。
posted by 郡山コスモス通りキリスト教会 at 00:00| 使徒言行録

2018年12月11日

「新しい始まり」

使徒言行録2:1-13
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
《霊の息吹》
私たちは、よく、誕生日のイメージとして、誕生ケーキのロウソクに息をフーっと吹きかけている場面を思い描くことがあるのではないでしょうか。誕生会などでは一番盛り上がる場面です。本日の箇所に記されている教会の誕生の出来事も、どこかそれに重なってくるところがあるかも知れません。ここには、ペンテコステの際に、辺り一面、激しい風が吹いてくる音が天から聞こえたということが記されています(2:1-2)。この「風」というのは、元々のギリシア語で「息」と訳すことのできる言葉です。このように、教会の誕生の場面でも、フーっと息が吹かれている情景が記されているのです。主なる神の霊の息吹が人々に吹きかけられているのです。
《形づくられていた人間》
 神様の息吹きが吹き入れられ、命が誕生する・・・。そのことを思う時、重なってくるのは、創世記に記されている「最初の人アダムが創造された場面」です(創世記2:7)。この時、主なる神は、土の塵で形づくった人間に息を吹き入れられ、アダムを生み出されました。息を吹き入れる前に、すでに形づくられていたアダムは、おそらく頭や足や手や内臓など、あらゆる身体の部分ができていたのではないかと思います。しかし、それで人が誕生したわけではありませんでした。見た目の形だけが備わっている段階では、アダムは生きた存在ではなかったのです。形づくられた人間に、主なる神が息吹を吹き入れられた時、アダムは生きる者となったのです。
《生きる者に》
 このことは、本日のペンテコステの箇所についても言えます。本日の箇所には、弟子たちが集まっていた様子が記されています。彼らは、すでにそこで祈ったり、神様を礼拝したりしていました。形とすれば、もうすでに教会になっているじゃないか・・・。そんなふうに考えることもできるのではないかと思います。しかし、そうではありませんでした。彼らの交わりが、真に教会とされるためには、決定的なことが必要でした。それは、創世記2:27と同じでした。最初の人アダムに聖霊の息吹が吹き込まれた時、アダムが生きる者となったように、イエス様の弟子たちの交わりに、聖霊の息吹が吹き込まれた時、初めて、彼らの交わりは、神の教会として誕生したのです。
《教会とされていくとは》
 このように、教会が教会とされるのは、その教会の中に、聖霊の命の息吹が吹き込まれることによってです。形が整っていれば、それで終わりではなく、形では捕らえられない部分、見えない部分が大切なのです。以前、私たちの教会では、教会組織をする時、教会組織のためにはどんな条件を満たすことが必要かということを話したことがあります。「教会予算がこれ位じゃないか」とか、「礼拝出席がこれ位になったら、教会組織ができるんじゃないか」とか、色々なことを話し合いました。それらも目安として大切なことです。ただ、それはあくまで教会としての形を作っていく作業なのだと思います。私たちの交わりが真に教会とされるということはそういうことではありません。私たちが集っている、この交わりに主が働いてくださり、主の息吹が注がれる・・・。そのことによって、私たちの交わりは、真に教会とされていくのです。
《十字架に生かされていく》
 今回の東日本大震災を受けて、様々な支援の働きが起こされています。そんな中、私たちは被災教会として、祈りに覚えられ、支えられていますが、同時に、私たちも周りに対して何かできないだろうか、模索しています。そんな中、先日は避難所に行ってきました。そのような働きから始めているのですが、支援の働きに関わる中、しばしば耳にする声があります。それは、「自分たちは教会として何ができるだろうか」という声です。私自身、いつもそのような思いを持ちながら、関わっています。しかし、本日の箇所を読みながら、ハッとしました。「自分たちは教会として何ができるだろうか」と考えて、「教会らしいプログラム」を考えていくことも大切かも知れません。しかし、何よりも、私たちの交わりを教会としてくださるのは、私たちの力ではなく、聖霊の業なのです。まずそのことをきちっとわきまえることが必要なのではないかと思います。何か形ばかり整えて、らしくあろうとするよりも、私たち一人一人が遣わされている場にあって、様々な事柄に出会う中、イエス様の十字架に生かされていくことの方が大切なのだと思うのです。
posted by 郡山コスモス通りキリスト教会 at 10:04| 使徒言行録

「新しい始まり」

使徒言行録2:1-13
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
《霊の息吹》
私たちは、よく、誕生日のイメージとして、誕生ケーキのロウソクに息をフーっと吹きかけている場面を思い描くことがあるのではないでしょうか。誕生会などでは一番盛り上がる場面です。本日の箇所に記されている教会の誕生の出来事も、どこかそれに重なってくるところがあるかも知れません。ここには、ペンテコステの際に、辺り一面、激しい風が吹いてくる音が天から聞こえたということが記されています(2:1-2)。この「風」というのは、元々のギリシア語で「息」と訳すことのできる言葉です。このように、教会の誕生の場面でも、フーっと息が吹かれている情景が記されているのです。主なる神の霊の息吹が人々に吹きかけられているのです。
《形づくられていた人間》
 神様の息吹きが吹き入れられ、命が誕生する・・・。そのことを思う時、重なってくるのは、創世記に記されている「最初の人アダムが創造された場面」です(創世記2:7)。この時、主なる神は、土の塵で形づくった人間に息を吹き入れられ、アダムを生み出されました。息を吹き入れる前に、すでに形づくられていたアダムは、おそらく頭や足や手や内臓など、あらゆる身体の部分ができていたのではないかと思います。しかし、それで人が誕生したわけではありませんでした。見た目の形だけが備わっている段階では、アダムは生きた存在ではなかったのです。形づくられた人間に、主なる神が息吹を吹き入れられた時、アダムは生きる者となったのです。
《生きる者に》
 このことは、本日のペンテコステの箇所についても言えます。本日の箇所には、弟子たちが集まっていた様子が記されています。彼らは、すでにそこで祈ったり、神様を礼拝したりしていました。形とすれば、もうすでに教会になっているじゃないか・・・。そんなふうに考えることもできるのではないかと思います。しかし、そうではありませんでした。彼らの交わりが、真に教会とされるためには、決定的なことが必要でした。それは、創世記2:27と同じでした。最初の人アダムに聖霊の息吹が吹き込まれた時、アダムが生きる者となったように、イエス様の弟子たちの交わりに、聖霊の息吹が吹き込まれた時、初めて、彼らの交わりは、神の教会として誕生したのです。
《教会とされていくとは》
 このように、教会が教会とされるのは、その教会の中に、聖霊の命の息吹が吹き込まれることによってです。形が整っていれば、それで終わりではなく、形では捕らえられない部分、見えない部分が大切なのです。以前、私たちの教会では、教会組織をする時、教会組織のためにはどんな条件を満たすことが必要かということを話したことがあります。「教会予算がこれ位じゃないか」とか、「礼拝出席がこれ位になったら、教会組織ができるんじゃないか」とか、色々なことを話し合いました。それらも目安として大切なことです。ただ、それはあくまで教会としての形を作っていく作業なのだと思います。私たちの交わりが真に教会とされるということはそういうことではありません。私たちが集っている、この交わりに主が働いてくださり、主の息吹が注がれる・・・。そのことによって、私たちの交わりは、真に教会とされていくのです。
《十字架に生かされていく》
 今回の東日本大震災を受けて、様々な支援の働きが起こされています。そんな中、私たちは被災教会として、祈りに覚えられ、支えられていますが、同時に、私たちも周りに対して何かできないだろうか、模索しています。そんな中、先日は避難所に行ってきました。そのような働きから始めているのですが、支援の働きに関わる中、しばしば耳にする声があります。それは、「自分たちは教会として何ができるだろうか」という声です。私自身、いつもそのような思いを持ちながら、関わっています。しかし、本日の箇所を読みながら、ハッとしました。「自分たちは教会として何ができるだろうか」と考えて、「教会らしいプログラム」を考えていくことも大切かも知れません。しかし、何よりも、私たちの交わりを教会としてくださるのは、私たちの力ではなく、聖霊の業なのです。まずそのことをきちっとわきまえることが必要なのではないかと思います。何か形ばかり整えて、らしくあろうとするよりも、私たち一人一人が遣わされている場にあって、様々な事柄に出会う中、イエス様の十字架に生かされていくことの方が大切なのだと思うのです。
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