イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
《祈るイエス》
私たちは、これよでルカによる福音書を読み進めてきましたが、ルカによる福音書が特徴的に書き記していることがあります。それは祈るイエス様の姿です。ルカによる福音書では、イエス様が様々な宣教の働きの場面で祈られていた様子が丁寧に記されています。たとえば、イエス様がバプテスマを受けられる場面において、イエス様がバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けたと記されています(3:21)。よた、12弟子を選ばれる場面でもそうです。イエス様が祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた後、12弟子を呼び集められたことが記されています(6:21)。また、ペトロが最初に信仰告白をする場面でもそうです。イエス様がひとりで祈られた後、共にいた弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねられたことが記されていよす(9:18)。その他、山のよでの顕現の場面(9:29)や主の祈りを教えられる場面(11:1)でもイエス様が祈られている姿が記されています。そして、ペトロの躓きを預言する場面で、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(22:32)と言われたことが記されているのです。このように、ルカによる福音書は、イエス様が宣教の働きの様々な場面で祈られている様子を丁寧に書き記しています。
《イエス様が教えてくださった姿》
バプテスマを受ける場面…。 12 弟子を選ばれる場面、言うなれば、大切な選び取りの時でした。そのように大切な選び取りをし、ここから始めようとしている時、イエス様は祈られていたのです。また、大切な弟子との関わりにおいてもイエス様はいつも祈られていました。ペトロがイエス様への信仰を告白する時においても、躓いてしまう時においても、イエス様は何より祈られたのです。人との関わりにおいて、相手がどう思うか、どういう態度を取るのか分からない…。こちらとしてはどうすることもできない…。こちらの思いと関係なく、相手が自分のことを受け入れてくれることもあれば、拒まれてしまうこともある…。イエス様にとってペトロの信仰告白や躓きは、そのような出来事だったのではないでしようか。しかし、その中でイエス様は祈られたのでした。そして、いよいよ十字架に向かわれるようする時において、イエス様は祈られました。私たちには、想像のできないような痛みや悲しみ、葛藤や迷いを抱えながら、孤独な十宇架への歩みの中で、イエス様は「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」(22:44)のでした。私たちはこのイエス様の姿を覚えていたいと思います。これが、イエス様が私たちに教えてくださった姿です。
《祈ることが赦されている》
イエス様が通られた色々な出来事を思う時、私たちの歩みにも、これらの出来事に重なってくるようなことがあるのではないかと思います。たとえば、私たちの歩みの中で、大切な選び取りをしなければいけない時というのがあるのではないでしょうか。人との関わりの中でも色々な経験を通されることがあるのだと思います。こちらの思いと関係なく、相手が自分のことを受け入れてくれることもあれば、拒まれてしまうこともある…。そんな中、色々な難しさを思い知らされる時もあるのではないでしょうか。私たちでは負いきれない抱えきれない課題に向き合わされながら、葛藤や迷いの中に立たされることもあるかも知れません。そんな中、私たちはイエス様が私たちに教えてくださった姿を心に覚えていたいと思うのです。イエス様はそのような場面で祈られました。思いをそのまま主なる神に打ち明け、祈られたのです。私たちも同様に祈ることが赦されているのです。ずいぶん前に読んだ本の中に、こんなことが書かれていました。「私たちが祈れないとすれば、それは怠けているからではなく、祈ることが力であると信じていないからではないでしょうか。どこかで、自分の力で生きようとしているからではないでしょうか。祈りの力を知り、自分は祈りなしに生きることはできないというのは私たちにとって何よりの祝福だと知っていたいと思います」。本当にそうだと思います。私たちが祈りの真実を知らされる…。祈りが拓く世界を知らされる…。そのように祈りが力であることを経験する時、私たちは祈りが苦ではなくなるのではないでしょうか。むしろ、自分は祈りなしに生きることはできないと思うようにさせられていくのだと思います。祈りは形式ではありません。私たちの心と思いをそのまま注いでいく作業です。そのようにして、神様と結ばれていく作業です。イエス様はそのように祈られていました。私たちもそのように祈ることが赦されているのです。