2013年01月06日

「御心のまま」

     ルカによる福音書22章39-46節

 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」





 《祈るイエス》
 私たちは、これよでルカによる福音書を読み進めてきましたが、ルカによる福音書が特徴的に書き記していることがあります。それは祈るイエス様の姿です。ルカによる福音書では、イエス様が様々な宣教の働きの場面で祈られていた様子が丁寧に記されています。たとえば、イエス様がバプテスマを受けられる場面において、イエス様がバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けたと記されています(3:21)。よた、12弟子を選ばれる場面でもそうです。イエス様が祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた後、12弟子を呼び集められたことが記されています(6:21)。また、ペトロが最初に信仰告白をする場面でもそうです。イエス様がひとりで祈られた後、共にいた弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねられたことが記されていよす(9:18)。その他、山のよでの顕現の場面(9:29)や主の祈りを教えられる場面(11:1)でもイエス様が祈られている姿が記されています。そして、ペトロの躓きを預言する場面で、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(22:32)と言われたことが記されているのです。このように、ルカによる福音書は、イエス様が宣教の働きの様々な場面で祈られている様子を丁寧に書き記しています。
 《イエス様が教えてくださった姿》
 バプテスマを受ける場面…。 12 弟子を選ばれる場面、言うなれば、大切な選び取りの時でした。そのように大切な選び取りをし、ここから始めようとしている時、イエス様は祈られていたのです。また、大切な弟子との関わりにおいてもイエス様はいつも祈られていました。ペトロがイエス様への信仰を告白する時においても、躓いてしまう時においても、イエス様は何より祈られたのです。人との関わりにおいて、相手がどう思うか、どういう態度を取るのか分からない…。こちらとしてはどうすることもできない…。こちらの思いと関係なく、相手が自分のことを受け入れてくれることもあれば、拒まれてしまうこともある…。イエス様にとってペトロの信仰告白や躓きは、そのような出来事だったのではないでしようか。しかし、その中でイエス様は祈られたのでした。そして、いよいよ十字架に向かわれるようする時において、イエス様は祈られました。私たちには、想像のできないような痛みや悲しみ、葛藤や迷いを抱えながら、孤独な十宇架への歩みの中で、イエス様は「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」(22:44)のでした。私たちはこのイエス様の姿を覚えていたいと思います。これが、イエス様が私たちに教えてくださった姿です。
 《祈ることが赦されている》
 イエス様が通られた色々な出来事を思う時、私たちの歩みにも、これらの出来事に重なってくるようなことがあるのではないかと思います。たとえば、私たちの歩みの中で、大切な選び取りをしなければいけない時というのがあるのではないでしょうか。人との関わりの中でも色々な経験を通されることがあるのだと思います。こちらの思いと関係なく、相手が自分のことを受け入れてくれることもあれば、拒まれてしまうこともある…。そんな中、色々な難しさを思い知らされる時もあるのではないでしょうか。私たちでは負いきれない抱えきれない課題に向き合わされながら、葛藤や迷いの中に立たされることもあるかも知れません。そんな中、私たちはイエス様が私たちに教えてくださった姿を心に覚えていたいと思うのです。イエス様はそのような場面で祈られました。思いをそのまま主なる神に打ち明け、祈られたのです。私たちも同様に祈ることが赦されているのです。ずいぶん前に読んだ本の中に、こんなことが書かれていました。「私たちが祈れないとすれば、それは怠けているからではなく、祈ることが力であると信じていないからではないでしょうか。どこかで、自分の力で生きようとしているからではないでしょうか。祈りの力を知り、自分は祈りなしに生きることはできないというのは私たちにとって何よりの祝福だと知っていたいと思います」。本当にそうだと思います。私たちが祈りの真実を知らされる…。祈りが拓く世界を知らされる…。そのように祈りが力であることを経験する時、私たちは祈りが苦ではなくなるのではないでしょうか。むしろ、自分は祈りなしに生きることはできないと思うようにさせられていくのだと思います。祈りは形式ではありません。私たちの心と思いをそのまま注いでいく作業です。そのようにして、神様と結ばれていく作業です。イエス様はそのように祈られていました。私たちもそのように祈ることが赦されているのです。

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2012年12月30日

「あなたは立ち直ったら」


    ルカによる福音書22:31-34

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」


《あなたは今日、鶏が鳴くまでに》
 本日の箇所には、イエス様とペトロのやり取りが記されています。イエス様は、22:21のところで、「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」と言われました。これを聞いた弟子たちは、激しく動揺し、「いったいだれが、そんなことをしようとしているのか」と議論をし始めました。すると、イエス様は、ペトロに対して、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(22:31) と言われたのです。これに対して、ペトロは、激しく反発し、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(22:33)と言い張りました。しかし、イエス様は、そんなペトロに対して、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(22:34)と語り、ペトロの裏切りを預言されたのでした。イエス様の御言葉は、その通りになりました。ペトロは、この出来事から数時間後、鶏が鳴くまでに、三度イエス様のことを知らないと言ってしまうのです。
 《あなたはどうか》
 本日のペトロを見て、皆さんはどう思うでしょう。ペトロを「情けない」と思うでしょうか。「恰好悪い」と思うでしょうか。私は、本日の箇所を読む時、いつも自分の信仰が問い直されるような思いにさせられます。もし、自分がこの現場にいたとしたら、どうだったろう…。もしもの話をしても仕方ありませんが、本日の箇所を読む時、いつも、「あなたはどうか」と問いかけられているように思うのです。私は自分の中にペトロと同じ弱さがあることを痛感します。普段、神に向き合い、御言葉に親しんでいながらも、いざという時に神から離れ去ってしまうかも知れない、どうしようもない弱さが自分の中にあることを思うのです。 しかしその一方で、自分なりに真剣にイエス様を求めていきたいとも思っています。そんな中、本日の箇所で「あなたはどうか」と問われる時、自分の中にある弱さは嫌というほど分かっているのですが、「この場にいたら、あなたは逃げ出すか」と言われて、「はい、私は逃げ出します」とは言いたくないのです。そんなことを簡単にロにしたくないのです。

 《ペトロはペトロなりに》
 本日のペトロの姿を見ながら思います。ペトロは、ペトロなりにイエス様を本気で選び取ろうとしていました。そのことにおいて真剣だったのだと思います。そして、イエス様は、そんなペトロを知っておられましたし、認めておられたのだと思います。それゆえ、イエス様は、本日の箇所から少し前の22:28では、「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」とおっしやったのだと思います。このようにペトロはペトロなりに本気でイエス様に従おうと思っていましたし、実際そうでした。このペトロを覚えていたいと思います。私たちはペトロのように、限界があります。自分で言ったことさえ守れなかったりする私たちがいます。いざという時に頼りのない私たちがいます。しかし、私たちなりに真剣にイエス様を見上げ、イエス様を選び取っていきたいと思うのです。本日のペトロの姿を覚えていきたいと思いますし、そんなペトロの姿に倣っていきたいとも思うのです。イエス様は、そんなペトロを見てくださったように、私たちをも見ていてくださるのだと思います。
 《私たちの立たされていく場所》
 私たちが本日の箇所で覚えていきたいのが、22:32の御言葉です。 「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:32)。イエス様は、ペトロがサタンにふるいにかけられ、躓くことを語った後で、「しかし、わかしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」とおっしやったのです。私たちが立たされていくのは、この部分です。私たちは、ペトロのように、私たちなりにイエス様を信じ選び取ったとしても、限界を抱えています。しかし、そんな私たちは、何より、ペトロと同様にイエス様に祈られているのです。私たちが立たされていくのは、この部分です。私たちの信仰は、私たちが何かを成し遂げようとする歩みでもなく、私たちの力で成り立っている歩みでもありません。私たちが祈られ、支えられている…。私が躓き、倒れそうになったとしても、この主の祈りが私たちを支え、捕らえ続けてくださっている…。それゆえに立ち続けることができる…。そこが私たちの信仰の強さなのであり、確かさなのです。

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2012年12月16日

「一緒に踏みとどまってくれた」

  ルカによる福音書22:24-30

また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。
そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。
 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」



 《ひとりの小さな手》
 皆さんは、「ひとりの小さな手」という歌をご存じでしょうか。「ひとりの小さな手何もできないけど/それでもみんなの手と手とあわせれば/何かできる/何かできる」。小さい頃から馴染みのある歌ですが、改めて歌詞を読む時、私たちに訴えかけてくることがたくさんあるなと思わされました。震災の厳しい状況に立たされながら、自分自身の小ささをつくづく見せつけられます。そんな中、「ひとりの小さな手」の歌詞のようになりたいなと思います。しかし、同時に中々そんなふうになれないことがあったりするのではないだろうかとも思います。自分たちは本当に小さく、何もできない…。だから、みんなの手と手をあわせていきたい…。だけど、お互いに思いがバラバラになってしまったり、中々、一つになれない…。時に、いざという時に限って、そんなふうになってしまう私たちがいたりするのではないかと思います。本日の状況は、まさにそのようなことが書かれている箇所ではないかと思います。イエス様が十字架につけられる時がいよいよ迫っていました。そんな中、イエス様は弟子だちと過ぎ越しの祭りを祝いながら、最後の食卓を囲んでいました。弟子たちは、これからどんなことが起こるのか見当もつきませんでしたが、言いようもない不安や危機感を感じ取っていたのだと思います。そんな中、本当に大切な時が追っていて、今こそ弟子たちは思いを一つにして事柄に向き合っていかなければなりませんでしたし、手と手をあわせて、協力していかなければなりませんでした。そんな状況だったのだと思います。にも関わらず、聖書には次のように書かれているのです。「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」(22:24)。このように、弟子たちは、この大事な場面で、一番思いを一つにして事柄に向き合っていかなければならない時に、あれこれと議論していました。そんな中、だれがいちばん偉いか競い合っていったというのです。とても思いを一つにして事柄に向き合おうとしているような状況ではなかったのです。
 《そんな弟子たちをなおも》
 わたしたちは本日の箇所をどう聞くでしょうか。正直、「何をやっているんだろうか」と思ってしまいます。 しかし、ある意味、私たちは。この弟子たちの姿を慰めのメッセージとして聞くことができるかも知れないとも思います。私たちも同じかも知れません。目の前に課題があって、私たちが一つになって取り組んでいかなければならない時にバラバラになってしまうようなことがあるかも知れません。 しかし、弟子たちもそうでした。ですから、本日の弟子たちの姿というのは、諦めと共に、ある意味、慰めの姿として見ていくことができるかも知れないと思います。そして、何より覚えていたいのは、そんな弟子たちとイエス様は共に居続けてくださいましたし、それでもなお彼らを使徒として用いようとされたということです。イエス様は「あなたたち何やっているの。もう駄目だ」と言って見捨てられたりするようなことはありませんでした。私たちもこの弟子たちと変わらない部分をもっています。弟子たちと同じようなどうしようもないようなものを抱えています。 しかし、覚えていたいのは、そんな私たちとイエス様が共に居続けてくださるし、それでも私たちを用いようとされているということです。
 《仕える者のようになりなさい》
 ただ、だからと言って「これでいいんだ」で終わってはいけないのだと思います。私たちは、本日の弟子たちの姿から私たち自身が問われていることがあるのではないかと思います。イエス様は、互いに言い争い、一つになれず、だれが偉いか競い合っている弟子たちに対して、「仕える者のようになりなさい」(22:26)とおっしゃいました。本当に砕かれる言葉なのだと思います。冷静に考えてみれば当たり前のことです。自分の思いばかりが湧き上がり、競い合い、互いに譲れない…。そんな状況で、一つになんかなれるわけなんかないのだと思います。互いに仕えることをしていかなければ一つになんかなれるわけがないのだと思います。 しかし、実際の自分を顧みて思うのは、しばしば、そういうところが抜け落ちてしまって、自分の思いに凝り固まってしまう自分がいる…。そんな中、互いにバラバラな思いに向かう方向に流されてしまっている自分がいるのではないかと思うのです。本日の箇所は、そのような箇所です。私たちが本当の意味で主にある群れとされていくために、互いに砕かれ、謙り、仕える者のようになることが必要なんだ…。+宇架を目前にされたイエス様が、そのように弟子たちに教えられた箇所です。
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2012年12月02日

「差し出された愛」

     ルカによる福音書22:19-23

 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。

 《主の晩餐》
 本日の箇所は、有名な主の晩餐の記述です。イエス様は、この時、どんな思いでおられたのでしょうか。イエス様は、これまで散々人の世の姿についてご覧になってきました。その中で、人々の罪の有様を嫌というほど、見てこられました。頑なで、自分のことしか見えず、勝手なことばかり言ったり、やったりしている人々の姿を見てこられました。その一方で傷つき、疲れ、迷っている人たちの姿も見てこられました。この主の晩餐の席についていた弟子たちだって、それほど変わりがなかったのだと思います。そんな中、弟子たちの中にイエス様を裏切ろうとしている弟子までいたのです。
 《あなたたちが生きるために》
 イエス様は、そんな人々の姿、弟子たちの姿を見ておられました。そして、その様子に悲しまれながら、憐れみ、心から愛おしみながら、パンを割かれました。そして、「あなたたちが生きるために、私をあげるよ」と言って差し出されたのです。それが主の晩餐でした。イエス様は、パンを裂かれて弟子たちに与えられました。そして、これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」(22:19)と言われました。また、葡萄酒の入った杯を与えました。そして、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(22:20)と言われました。そんなふうに、「あなたたちが生きるために、わたしをあげるよ」と言って差し出されたのです。そして、そのように言われたイエス様は、さらに十字架へと進まれました。そして、十字架で私たちの身代わりとして、ご自身の命を献げられたのです。
 《私たちは招かれている》
 私たちは、改めて、本日の主の晩餐の食卓を心に刻んでいきたいと思います。私たちもこのイエス様の食卓に招かれています。時に罪を抱え、弱さを抱え、その一方で頑なだったり、勝手なことばかりしてしまっている私たちがいます。自分のことしか見えず、自分も傷つけられながらも、知らぬ間に相手を傷つけてしまっている私たちがいます。そんな愚かな私たちをイエス様は招いてくださっているのです。その私たちに、イエス様は憐れみ、心から愛おしみながら、私たちを生かすためにパンと杯を与えてくださっているのです。このイエス様の愛が、私たちにとっての救いの道であり、希望の道です。私たちが、このイエス様の愛に、命に生かされる時、私たちの痛みは癒されます。頑なな心を砕かれていきます。どこに行けばいいのか分からなくなって迷っている私たちに道が示されるのです。
《霊の糧》
 本日の箇所で、イエス様は、この主の晩餐の席で、私たちに御自身をパンとして与えられました。このことについて今一度考えてみたいと思います。パン…。それは食糧です。イエス様のもとには、私たちの霊の糧があるのだということを心に刻んでいきたいと思います。私たちが力を無くしている時、傷つき、疲れている時、私たちが、イエス様の十字架を見上げるなら、そこには変わらない霊の糧があるのです。私たちをどんな境遇、状況にあっても支え、力を与え、立たせてくださる…。十字架を通して、イエス様は、そのような霊の糧を与えてくださるのです。
 《新しい契約》
 そして、さらにイエス様は、この主の晩餐の席で私たちに御自身を契約のためのぶどう酒として与えられました。新しい契約…。この御言葉は、エレミヤ書31:31-34の御言葉から来ている言葉です。エレミヤ書が書かれた状況は、バビロン捕囚の直前の状況です。イスラエルの民は、神様と律法による契約を結んでいました。しかし、イスラエルの人々は、神様に罪を犯し、その契約を破ってしまった…。もはや、神様との断絶は修復不可能なくらい、決定的になってしまったのです。そんな中、神の裁きの出来事として、バビロンによって、イスラエルの国が滅ぼされることになってしまったのです。そのように、人の罪と愚かさの極みにあったのが、この時の状況でした。しかし、その中でエレミヤは語るのです。神が私だちと新しい契約を結んでくださる日が来る…。そこから新しい歴史が始まるのだ…そのように語ったのです。そして、まさにエレミヤ書の預言の成就がイエス様でした。私たちがこのぶどう酒を受ける時、その時から私たちは新しい契約に生かされ、新しい歴史が始まるのです。新しい命に生かされるのです。

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2012年11月25日

「食卓を整えてくがさる方」

   ルカによる福音書22:7-13

 過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。
 イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。
 二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」
 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。




《過ぎ越しの食事》
 本日の箇所は、イエス様が弟子だちと過ぎ越しの食事を取られた箇所です。いよいよイエス様が十字架につけられる時が迫っていました。すでにイエス様とエルサレムの指導者たちとの間には、決定的な確執があり、ルカ22:1-6には、イスカリオテのユダが、エルサレムの指導者たちに対して、イエス様を裏切って引き渡そうとする算段を持ちかけている様子が記されています。そのように、エルサレムの町は、不穏な空気に包まれていました。おそらく、弟子たちもそのような空気を感じとっていたのではないかと思います。本日の箇所の舞台は、エルサレムにある家の中です。このことも弟子たちにとって複雑な思いだったのではないでしょうか。イエス様たちはこれまで、エルサレムで宣教している間、ずっとエルサレム近郊のベタニヤ村というところで食事をしたり、寝泊りをしていました。そんな中、ベタニヤ村での一時は、彼らにとって安心して心休める一時でした。弟子たちにしてみれば、どうせ過ぎ越しの食事を取るなら、心静めながら行なうためにできるだけ安全な場所、心落ち着ける場所で行ないたいと思っていたのではないでしょうか。しかしイエス様は、こともあろうに、問題の渦中、危険渦巻く、エルサレムの都を示し、「ここで過ぎ越しの食事の準備をするように」と言われたのです。弟子たちは、色々な思いを抱えていたのではないでしょうか。心には不安や煩いごと、心落ち着けることができないような色々な思いを抱えながら、この食事の席についていたのではないかと思います。
 《とてもそんな思いには》
 私たちの教会では、毎月、この最後の晩餐の食事を覚えて、「主の晩餐」というものを執り行なっていますが、私はその司式を行なう時、時々このことについて考えます。 2000年前、実際の最後の晩餐の時、イエス様の弟子たちは、どんな思いで食事をしたのでしょうか。イエス様は食事の席で、弟子たちに対して、パンや杯を分け与えてくださったのですが、それらのパンや杯を弟子たちは味わうことができたのだろうかと思うのです。 とてもそんな思いにはなれなかったのではないでしょうか。イエス様からパンや杯を差し出されても、ゆっくりと味わえない‥・。そんな思いもあったのではないかと思います。それが、実際の主の晩餐の状況ではないかと思います。事態はどんどん緊迫した状況を迎えていて、弟子たちの知らない場所で、イエス様を捕らえ、殺そうとする計画が着々と進み、弟子たちの中でもすでに裏切りを決めた者までが、そのチャンスをうかがっていたのです。最後の晩餐というのは、そのような状況でした。よく、教会の「主の晩餐」では、「このパンと杯の恵みを覚えて、ゆっくりかみ締めて味わいましょう」と言って食べますが、実際、最初の主の晩餐の状況というのは、そんなふうにはとてもできなかったのではないかと思います。そして、何でイエス様はそんな時に、こんな特別な食事をされたのかと思ってしまいます。 しかし逆に、そこにこそ、主の晩餐の恵みというものがあらわされているのかも知れません。イエス様は、このような緊迫した状況…。落ち着いて、心を静まることができないように思える状況の中で、あえて、そのような食卓の場所を備えてくださったのです。
 《食卓を整えてくださる》
 一つの聖書の箇所を読みたいと思います。「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる」(詩篇23:5-6)。有名な御言葉ですが、この御言葉を心に覚えていたいと思います。状況としては、苦しめる者が目の前にいる…。普通なら、心揺さぶられ、思い煩いにとらわれ、安心して食事もできないような場面です。 しかし、そのような場面で、あえて私たちの神様は、私たちに食卓を整えてくださるというのです。その食卓とは、私たちの心を平安へと導いてくださる食卓です。私たちは主が整えてくださった食卓の前で、心配することはないのです。問題を全てお任せして、自分がそれまで背負ってきた荷物も、「これ食事をするのに邪魔だからいいですか」とお預けして、食事を味わうことがゆるされるのです。私たちの歩みの中には、様々なことがあります。煩わされることだったり、不安なことだったり、揺さぶられてしまうようなことだったりするのではないでしょうか。死の陰の谷を通らされているかのような経験を通ることがあるかも知れません。しかし、主はそのような中で食卓を整えてくがさる方です。その最たる場所が、この主の晩餐の食卓だったのだと思います。

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2012年11月11日

「過ぎ越しの備え」

     ルカによる福音書22:7-13

 過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。
 イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。
 二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」
 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。


《過ぎ越しの備え》
 本日の箇所に記されているのは、いよいよイエス様が捕らえられ、十字架に架けられることになった日、イエス様が弟子たちに過ぎ越しの祭りを祝うための準備をさせたという記述です。本日の箇所は、読んでいて不思議な気持ちにさせる箇所ではないでしょうか。イエス様が弟子たちに過ぎ越しの食事ができるように準備をさせました。しかし、良く読んでみると、結局のところ、弟子たちは、彼ら自身でほとんど何も準備していないのです。私たちは本日の箇所からどんなメッセージを聞くことができるでしょうか。
 《弟子たちの役割》
 一つ思うことがあります。彼らは、これまでイエス様に従ってきた中で、こんなことを幾度となく経験してきたのではないかと思うのです。たとえば、ルカ19:28-36には、イエス様がエルサレムに入城された時の記述が記されています。この時も弟子たちはイエス様がエルサレムに入城するためのロバを調達してくるように言われましたが、この時も不思議な形でロバが備えられていました。ル力10:1-12 には、イエス様が72人の弟子たちを任命し、町や村に派遣した様子が記されていますが、そこでも全てのことが備えられ、守られていった様子が記されているのです。そんなふうに、本日の箇所の出来事というのは、弟子たちがこれまでも経験してきたことなのだと思います。そして、そのようなことを振り返って思うことがあります。それは、弟子たちにイエス様から託された役割です。イエス様は、先はどの箇所で、弟子たちを遣わされましたが、その中で、弟子たちに与えた役割とは、何だったでしょうか。一言で言うなら、イエス様を迎えて、イエス様が働かれるために備える役割でした。本日の箇所では、イエス様をお迎えして、共に過ぎ越しの祭りを祝うことができるように備える役割が弟子たちに託された役割でした。エルサレム入城の場面でもイエス様をエルサレムに迎えるために備える役割としてロバを調達することになったのです。そして、72人の弟子たちを派遣した場面では、イエス様がやがて行こうとしておられた町や村に出て行き、イエス様を迎えるために備える働きをしていったのです。そんなふうに、ここには、イエス様を迎えて、イエス様が働かれるために備える役割が弟子たちに与えられているということができるのではないかと思います。
《イエス様が働かれるために備える役割》
 そして、そのことを考える時、改めて、弟子たちに託された働きの本質を知らされるのではないかと思います。弟子たちが福音宣教に遣わされていくにあたって、彼らに託された働きというのは、彼らが前面に出て働きをすることではありませんでした。イエス様を迎えて、イエス様が働かれるために備える働きだったのです。イエス様がその場所に来てくださるように、その場所で働いてくがさるように備えたり、場所を整えたりしていったのです。そして、それは、私たちも同じではないでしょうか。私たちも弟子だちと同じように、福音宣教の働きに遣わされていますが、私たちに託されているのは、自分たちの力で成し遂げていくような働きではありません。そうではなく、私たちに託されている働きとは、イエス様が来られるように備える働きなのだと思います。私たちがそれぞれ遣わされている場所において、「イエス様、どうぞ、ここで働いてください」という祈りで備え、一つ一つのことを整えていく…。そのような働きなのだと思うのです。
 《全て備えておられる》
 そして、さらに思います。私たちは、そのようにイエス様から遣わされ、イエス様が来られるように備えようとしていくわけですが、実際にあれこれしながら知らされることは、そんな私たちに先立って、主はすでに全てを備えておられるということです。本日の箇所でもそうでした。ガリラヤ出身の弟子たちにとって、エルサレムの町は、ほとんど土地勘などもない場所だったのだと思います。そんな中、「過ぎ越しの食事の準備をしなさい」と言われても、正直、どうすればいいのか分からなかったりしたのではないでしょうか。イエス様から「町に入れば、水がめを運んでいる男に出会うから、その男について行きなさい」と言われても、正直なところも意味もよく分かっていなかったでしょうし、本当かなぁという思いもあったかも知れません。 しかし、弟子たちはイエス様に押し出されるようにして、出て行きました。そして、そこに確かに主の働きとしか思えないような形で不思議な出会いが起こされたのでした。全てのことが整えられていったのです。
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2012年11月04日

「取り除くべきもの」

     ルカによる福音書22:1-6

 さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。


《除酵祭が近づいていた》
 本日の箇所は、祭司長たちや律法学者たち、そして、イエス様の弟子であったイスカリオテのユダが一緒になって、イエス様を殺す計略を立てたという箇所です。本日の箇所の冒頭には「過越祭と言われている除酵祭が近づいていた」(22:1)と書かれています。この御言葉を読む時、色々なことを考えさせられます。過ぎ越しの祭りでは、「七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く」(出エジプト12:15)と書かれているように、家の中から一切の酵母を取り除いてしまわなければなりませんでした。そのように、余計なものを取り除くべき時…。それが過ぎ越しの祭りであり、除酵祭の時であったのです。そのような時に彼らが取り除こうと考えたものが、イエス様だったのです。
 《彼らを取り巻く恐れ》
 祭司長たちや律法学者たちやイスカリオテのユダは、イエス様を取り除こうとしていました。 しかし、彼らがこの時、本当に取り除くべきものは何だったのでしょうか。本日の箇所には、祭司長たちや律法学者たちが、イエス様を殺そうとやっきになっている様子が記されていますが、その心の中には、恐れがあったことが書かれています(22:1)。彼らは、民衆がイエス様に人々がなびいていく様子を見ながら、民衆から自分たちがそっぽを向かれてしまうのではないかと恐れていました。またイエス様を殺すにしても、そうすることで人々から反感を買うことを恐れていました。そのように様々な恐れの思いが彼らの心を取り囲んでいたのです。
 《湧き上がる思い》
 そして、そのような恐れの思いの根っこには、さらに色々な思いがあったのだと思います。まず自分たちを守ろうとする思いが恐れを抱かせたのではないでしょうか。あるいは自分たちの考えや知恵で何とかしようとする彼らの姿も見えてくるのではないかと思います。祭司長たちや律法学者たちは、民衆がイエス様になびいていく様子を見ながら、彼らはそれを何とかしようとして、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていたのです(22:1,6)。そして、さらに思うのが、自分を守ろうとする…。 自分たちだけで何とかしようとする…。そんな思いの中で、自分たちに都合の良い人だけを取り込んでしまおうとする思いに引きずられてしまう姿です。イスカリオテのユダがイエス様に対して反感を持って、イエス様を引き渡そうと相談を持ちかけてくると、祭司長たちや律法学者たちは、喜んで、ユダを取り込んでしまうのです(22:4-5)。そのような思いがどんどん膨らんでいく中、彼らはイエス様に向き合えなくなり、イエス様への恐れや反発心や敵対心ばかりが湧き上がっていったのだと思います。結果、イエス様がどんなに御言葉を語っても、聞けず、イエス様の指し示す救いにも与ろうとしない彼らがいたのです。
 《取り除かなければならないもの》
 そんな彼らの姿を見ながら、どう思うでしょうか。むしろ、取り除かなければならなかったものは別にあったのではないでしょうか。彼ら自身の中にあったのではないでしょうか。彼らの中にイエス様の言葉を聞けなくしている思い…。恐れ…。その恐れの中に潜んでいた自分を守ろうと必死になっている思い…。自分たちだけで何とかしようとしている思い、自分たちに都合の良い人だけで一緒になっていこうとする思い…。むしろ、取り扱わなければならなかったことは、そのようなことだったのではないかと思うのです。このことは、私たちも問われているのかも知れません。私たちの心の内にあるもので取り除くべきものは何でしょうか。私たちはしばしばそのことが混乱してしまうことがあります。結果、私たちはおかしな方向に向かってしまう…。本日の祭司長たちや律法学者たちやイスカリオテのユダのような歩みに向かってしまいかねないのです。
 《パン種を取り除きなさい》
 使徒パウロは、聖書の中で、本当の過ぎ越し、本当の除酵祭でとるべき態度は、こういうことなんだということを語っています。「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。〜古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」(Iコリント5:6-8)。私たちには、心の中にそのような祭司長たちや律法学者たちのような思いが湧き上がってきます。拭えないパン種のように心を支配しようとしてしまいます。そんな中、主の前に聞きながら、パン種を取り除く作業を続け、主に立ち帰り続けていくことが、私たちの信仰の歩みなのだと思います。

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2012年10月21日

「主の前に立つ」

      ルカによる福音書21:34-38

 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
 それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。

《いつも目を覚まして》
 本日の箇所で、イエス様は人々に対して「いつも目を覚まして祈りなさい」(21:36)と言われました。祈りとは私たちが目を覚まして向き合うべきものに向き合っていくために、イエス様の前に立つために大切なことなのだと言われたのです。実際、そうではないでしょうか。そうでないと、私たちはすぐに迷ってしまったりするのではないかと思います。イエス様は、本日の箇所で「いつも目を覚まして祈りなさい」という言葉と対象的に言われたことがあります。それは、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」(21:34) ということでした。イエス様は、人々に対して、私たちはしばしば心が鈍くなって、いつの間にか、歩みが放縦の方向だったり、深酒の方向だったり、生活の煩いにばかりに思いがとらわれてしまうようなことがあるんだとおっしゃったのです。実際、そのような私たちがいるのではないかと思います。
《放縦や深酒や生活の煩い》
 現在、仮設住宅に行くと、色々な仮設住宅でお酒の空き瓶があちこちに目立つようになってきています。お酒を飲むこと自体が問題ではないのですが、そんな様子を見ると「大丈夫かな」と心配になってしまいます。阪神大震災の際、仮設住宅の人たちに義援金が配られた時、それをそのままお酒に使ってしまい、アルコール依存症の人が増えたり、お金を全部パチンコに使ってしまう人が増えたと言われています。今回もそうならないか、心配です。でも一方で、「この状況じゃ、そういう思いにもなってしまうよな」と思ったりしてしまいます。先行きの見えない状況で、不安を抱え、しんどい思いをさせられながら、心がそのような方向に向かってしまうのは痛いほど分かるのです。私たちにはそんな弱さがあるのだと思います。ともすると、心がどんどん流され、心が鈍くなってしまっている私たちがいるのではないでしょうか。目的を失ってしまう…。喜びを失ってしまう…。そんな中、そんなことで心が満たされるわけがないことが分かっているのに、どうしても放縦や深酒の歩みに引きずられている私たちがいるかも知れません。目先のことしか考えられなくなってしまっている私たちがいるかも知れません。そんな中、日々の煩い事に心が一杯になったり、押しつぶされそうになってしまっている私たちがいたりするかも知れません。そのようにして、肝心なものに向き合えなくなってしまう…。その程度は色々あるかも知れませんが、そのような心の方向にどんどんと流されてしまうような私たちがいるのではないかと思うのです。
《さもないと》
 イエス様は、本日の箇所で、「さもないと」と言われました。ここのところは、他の聖書の訳では、「気をつけなさい」(新改訳)とか「注意しなさい」(口語訳)という言葉で訳されています。そんなふうに気をつけなければならない時、注意をしなければならないような時、心が鈍くなってしまう…。そんな時に限って、肝心なことに向き合えない私たちがいるのではないだろうかと思うのです。
 《主の前に立つ》
 そんな私たちに対して、言われているのが、イエス様のメッセージだと思います。「祈りなさい」。祈ることこそ、心が鈍くならないようにするために必要であり、本来の自分を見失わないために必要なんだということをおっしやっているのではないでしょうか。そして、ここで言われている祈りというのは、単に祈りの文言を唱えるだけのお経のような祈りではないのだと思います。ルカ20:47には、イエス様が律法学者のしていた「見せかけだけの長い祈り」を厳しく非難している様子が記されていますが、そのような祈りを指しているのではないのだと思います。祈りなさいと言われていることで、大切なことは、「人の子の前に立つことができるように」(21:36) とあるように、イエス様の前に立とうとすることです。祈りを通して、御言葉を通して、私たちが心を主に向け、主の前に立とうとする…。それが祈ることなのだと思います。
 私たちは、日々の歩みの中で、ともすると、心がどうしても鈍くなり、大切なことがどんどん脇に追いやられてしまいます。心が目先のことで一杯になり、見た目の喜びばかり追い求めたり、目の前の患い事しか見えなくなってしまいます。そんな私たちに対して、本日のイエス様のメッセージは、大切なことを呼びかけているのではないかと思います。

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2012年10月14日

神の季節」

       「ルカによる福音書21:29-33

 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。
 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

《これを見なさい》
 本日の箇所は、イエス様が「見なさい」と言われた箇所です。イエス様は、「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい」(21:29)とおっしゃいました。そのようして、私たちに「見るべきもの」を教えてくださったのです。私たちは、本日のメッセージを通して、私たちが心に刻むべき大切な視点を学ぶことができるのではないでしょうか。まず、イエス様がこのようにおっしゃった時、人々は何を見ていたのでしょうか。それぞれ色々なものを見ていたのだと思いますが、たとえばこんなことが書かれています。ルカ21:5-6には、エルサレムの神殿に見とれていた人々の様子が記されています。彼らは、神殿の豪華絢爛な様子に心奪われていました。また21:1-4には、神殿で金持ちたちがこれみよがしにジャラジャラと献金している姿や、20:45-47には、律法学者たちが周りの目線を気にして、長い衣をまとったり、上席、上座に座りたがったり、見せかけの祈りをしている姿が記されています。そんな中、何のために祈るのか、礼拝を献げるのかという肝心なことがどこかに行ってしまっている姿が記されています。
 《私たちが見ているもの》
 ルカ 20:45-21:7 に記されている様々な人々の眼差しを思いながら、おそらく当時の多くの人たちが、そんな眼差しだったのではないかと思います。 21:5-6 で、豪華な神殿に見とれるように、表面的なこと、見た目のことばかりに目が向けられている人々の姿があったのではないでしょうか。あるいは、律法学者たちや金持ちたちがそうであったように、人の目線ばかり気にしながら、かっこつけたり、見せかけを装ったり、競ったりする人々の姿があったのではないでしょうか。そんな中、本質的なことや肝心なことが見落とされてしまっている…。礼拝で献げ物を献げていても、神様ではなく、周りの体裁や他のことばかり気にしている…。祈りを献げていても、神様に向き合っていない…。人々の眼差しというのは、そんな方向にばかり向いてしまっていたのではないかと思うのです。そして、どうでしょう。それは、私たちも同じかも知れないと思ったりします。日々の歩みの中で、私たちは何に目を注いでいるのでしょうか。見た目のことだったり、目先のことばかりに目を奪われている私たちがいないでしょうか。周りの目線ばかりを気にして、肝心なことに目を向けることができなくなってしまっているようなことはないでしょうか。時々にそんなふうになってしまっている自分がいるように思います。
 《神の季節》
 私たちが、本日のイエス様のメッセージを通して、学ばされることは何でしょうか。色々なことが言えるかも知れませんが、まず言えることがあります。それは、私たちが皆、神の取り扱われる季節の中に、神の支配されるストーリーの中に、生かされているんだということではないでしょうか。イエス様は、「いちじくの木ゃ、ほかのすべての木を見なさい」とおっしゃっていました。そこには、夏が近づき、若葉が出始めたいちじくの木がありました。そんないちじくを指して、「葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(21:30-31)とおっしゃいました。いちじくの木は、自然の季節の摂理の中で生かされています。その季節に対応し、時に夏の準備をしたり、秋の装いをしたりしています。その自然の季節を無視することなく、その季節に備えて成長しているのです。同じように私たちも神の取り扱う神の季節に生かされています。そのことをわきまえながら、神の取扱われる季節を意識して、それを受け入れ、備えて歩んでいくことを呼びかけておられるのです。
 《変わらないもの》
 同時にイエス様は次のようにおっしゃいました。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(21:32-33) このようにイエス様は全てのものが神の季節の中で移り変わっていくことを教えられた後、決して変わらないものがあることをおっしゃいました。それはイエス様の御言葉でした。この御言葉に注目しなさい。この御言葉を芯に置き、移りゆくこの世の様々な事柄と向き合って生きなさいと語られたのです。そのようにして、表面的なこと、目先のこと、見た目のことばかりに目が奪われてしまう私たちに本当に「見るべきもの」について教えてくださったのです。

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2012年10月07日

「報復の日、解放の時」

    ルカによる福音書21:20-28


 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」
「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」


 《報復の日》
 ルカ21:20-24 には、日を覆いたくなるような惨劇が語られています。エルサレムが滅んでいく様子が書かれ、人々が剣の刃に倒れ、捕虜となって連れて行かれる様子が書かれています。そのようにして、ユダヤの人々にとって,何より大切な神の都エルサレムが異国の民に踏みにじられてしまう…。ユダヤの人々にとって、これほど胸を痛める出来事はないのだろうと思わされます。イエス様は、そのような惨劇を語られた後、これは「書かれていることがことごとく実現する報復の日」(21:22)なのだとおっしやったのでした。
 《理不尽な世界の中で》
「報復の日」と聞くと、怖いイメージばかり受けるかも知れません。しかし、この言葉については、注意を払って聞いていきたいと思います。聖書には、こんな箇所があります。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」(ルカ18:7-8)。ここで「裁き」として語られている言葉が、「報復]と同じ言葉です。このように、「報復」という言葉には正しいものを正しいとする…。理不尽な状況に虐げられ、苦しんだり、傷ついたりしてきた人たちに報いる…。真実を明らかにするという意味が含まれています。それゆえ、「報復の日」とは、これまで理不尽な思いばかりして、苦しんできた人たちにとっては、自分たちの思いが報われる時望の日でありました。
 《救いから遠い私たち》
この「報復の日」のメッセージに続いて、ルカ21:25-28には、「解放の時」(21:28)についてのメッセージが記されています。本日の箇所に記されているのは、そのように、神の真実を取り戻す日、理不尽な思いをし、苦しんできた人たちの思いが報われる「報復の日」についてのメッセージです。そして、私たちにとっての「解放の時」についてのメッセージでもあります。 しかし、その神の真実が取り戻されるためには、どんなに痛みを経験しなければならないのだろうかと思います。胸が張り裂けそうな思いを通らされ、目をふさがずにいられないような裁き、報復を通らさなければ、救われないのだろうかと思うのです。それほどに清算できない問題を抱えている…。救いから遠いところに来ている私たちがいるのだということをまざまざと見せつけられます。そして、実際、そうではないかと思います。それほどに歪んでしまっている私たちの世界があり、誤った方向に向かってしまっている私たち、病んでしまっている私たちがいるのではないかと思うのです。 しかし、そんなことを思いながら、改めて、本日の箇所を読む時、ハッとさせられます。本日の箇所に記されているメッセージは、終末についてのメッセージなのですが、何というのでしょう。この一連の流れを読みながら、私には、その一つ一つの事柄がイエス・キリストの十字架の出来事に重なって思えます。あのイエス・キリストの十字架で起こった出来事もそうだったのではないでしょうか。十字架で起こった出来事は、まさに「報復の業」でした。神の真実が示され、神の正しい裁きがなされたのが、十字架の出来事だったのです。その時、弟子たちは胸が張り裂けそうな思いを通らされ、目をふさがずにいられないような経験を幾度も通らされました。同時に彼らは、その十字架の出来事の前になすすべを知らず、不安に陥りました。これからどうなってしまうのだろうか…。弟子たちはそのようにおびえ、恐れました。そのような経験を通らされました。彼らはそのような経験をしながら、神の救いに与り、「解放の業」に与ることになったのです。まさに、イエス・キリストの十字架の出来事は、私たちを救い出すために神が通られた報復の日、そして、解放の時であったのです。
 《主の傷みの眼差し》
 そんな眼差しで、本日の箇所を読む時、私は、本日の箇所に主の傷みと涙と愛の眼差しを思い浮かべます。+字架において、弟子たちは張り裂けそうな思いを通らされました。目を塞がずにいられないような経験や「神様何で?」と思うような経験をしました。何もしてくれない神が冷酷で、恨めしくさえ思えました。 しかし、十字架の只中で誰よりも傷み、悲しんでおられたのは、他ならぬ父なる神ご自身でした。本日の箇所も同じではないでしょうか。ここには、目を覆いたくなるような出来事が書かれています。 しかし、これらの出来事の只中で誰よりも傷み、悲しんでおられたのは、他ならぬ主ご自身なのではないでしょうか。あくまで問題は、そうしなければならない原因を作ってしまった私たちにあるのだと思うのです。

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2012年09月23日

「不安時代を生きる」

     ルカによる福音書21:7-19

そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

《不安時代を生きる》
 本日の箇所は、新共同訳聖書の小見出しに「終末の微」と書かれています。イエス様が人々に対して、世の終わりの日のこと、その時に向けての備えについて語られた箇所が本日の箇所です。まさにここには、世界が終わりに向かっていく不安だらけの状況の中で、どう生きるべきかということが呼びかけているのだと思います。
《惑わされないように気をつけなさい》
 私が今回、この箇所を読んで心に残ったのは、「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」(21:11)という言葉でした。この御言葉から思い浮かべたのが、東日本大震災の様子でした。先の震災において、私たちはどんな思いを通ってきたのでしょうか。そのことを思う時、イエス様が本日の箇所でおっしやった「惑わされないように気をつけなさい」(21:8)との言葉がよりリアルに迫ってきました。私たちにとって、今回の震災、とりわけ原発事故の問題は、大きな出来事でした。原発事故を経てから今まで、本当に色々なものに惑わされるような経験をしてきました。今まで誰も経験したことがないような原発事故を前にしながら、放射能のことなどほとんど何も知らないような私たちが、「ああだ」「こうだ」と聞こえてくる声に、翻弄され続けてきたのだと思います。事柄が目に見えない問題であり、東電や行政は肝心な情報を明らかにしてくれません。そのように、確かなことが分からないまま、あっちからも、こっちからも色々な声が聞こえているような状況で、どうすればいいのか分からない…。そんな思いで過ごしてきたのだと思うのです。その経験を振り返ってみた時に思います。地震などの出来事に置かれた時に、自分は本当に賢明な判断をすることができるだろうか…。「惑わされないように気をつけなさい」と言われながら、散々周りの状況に振り回されていたり、惑わされていたりする私たちがいないだろうかと思うのです。
 《徴(しるし)を求める人々》
 本日の箇所を読みながら、冒頭の言葉が迫ってきました。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」(21:7)。本日の箇所で、弟子たちは徴について尋ねました。ユダヤ人たちにとって、徴というのは大切なものでした。しるしというのは、彼らが神を信じる根拠と言えました。徴があるということは、神が働いてくださる、神が真実である、神が共にいてくださることということの確かな証拠だったのです。本日の箇所で、徴のことが問われていることが印象的です。終わりの時代、思いも寄らないようなことが次々と起こり、心揺さぶられるような状況にあって、人々は神が働いてくださる、神が真実である、神が共にいてくださることということの確かな証拠としての徴を、より徴していたのではないでしょうか。
 《主の約束の言葉》
 ただ、そんなことを思いながら、本日のイエス様の言葉を読む時、イエス様は、人々が徴しているような明確な徴を表してくださったのだろうかと思います。色々なことがある中で、惑わされてしまうようなことがある中で、神が働いてくださる、神が真実である、神が共にいてくださることということの確かな徴を指し示してくださったのでしょうか。私は、この箇所を読む限り、むしろ逆だったりするのではないかと思ったりします。ここでイエス様が語られているのは、戦争だったり、地震だったり、飢饉や疫病だったり、むしろ、人々が心揺さぶるような事柄ばかりなのではないでしょうか。
状況としては、不安を煽りたてられるようなことばかりで、信仰が揺さぶられてしまったり、神様のことが分からなくなってしまうようなことばかりなのではないかと思うのです。しかし、その中でイエス様はおっしゃいました。「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(21:14-15)。ここでイエス様が与えているのは、約束の言葉です。たとえ、王や総督の前に引き出され、弁明を求められるようなことがあったとしても、大丈夫…。今からあれこれと思い悩んだりして準備しなくていい…。ちゃんとその時に語るべき言葉は与えられる…。それは約束として与えられているんだ…。そのように言われているのです。 21:16-18でも同様です。終わりの日に向かう不安な状況にあって、人々が神様を確かに確認できるような徴は見いだせないような状況にあって、イエス様は変わらない主の約束の言葉を指し示してくださっているのです。


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2012年09月16日

「砂の城」

        ルカによる福音書21:5-6

ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
 
《神殿の崩壊の預言》
 イエス様は、本日の箇所で、弟子たちに対して、エルサレムの神殿の崩壊を預言されました。エルサレムの神殿は、当時、聖書の神を信じる全ての者が、神を礼拝する場所としていた場所でした。この神殿は、これまで三度建てられていました。最初は、ソロモン王の時代、イスラエルの国が最も栄えていた時代に建てられました。しかし、やがてイスラエルの国は滅び、国の人々はバビロンという国に奴隷として連れて行かれてしまいました。その時、神殿も破壊されてしまったのです。しかしその後、80年経って、奴隷生活から解放された後、ゼルバベルとヨシュアというリーダーが現われ、再び、神殿を再建しました。しかし、この時の神殿というのは小規模なものでした。その後、ヘロデ大王という人が、三度、神殿を建築しました。この時、ヘロデ大王は、ローマの技術者の協力を得て、大変立派な神殿を建てたということが言われています。その素晴らしさと言えば、ローマ世界の中でも屈指のものであり、パレスチナ全土に知られるような建造物でした。そんな中、エルサレムの都を見渡す時、どれが一番後世にも変わらずに残るであろう建造物かと問うなら、多くの人が神殿と答えるのだと思う…。それがこの神殿だったのです。 ですから、人々は、ごく自然な思いで、神殿に感動し、自分たちの民族としての誇り、信仰の礎と思われた神殿の立派さに驚嘆していたのでした。しかし、そんな人々に対して、イエス様は次のように語られたのです。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(21:6)実際、この預言は、イエス様の言葉の数十年の内に実現しました。西暦70年にユダヤ戦争が勃発し、ローマ軍によって神殿が焼かれ、イスラエルの国は崩壊してしまいました。そして、その後に起こったバル・コクバの反乱(A.D.135)により、神殿は文字通り、一つの石も残らずに粉々に崩されてしまったのです。
 《耐え難い経験を通して》
 人は誰しも、自分たちが築き上げてきたものが変わってしまったり、失ってしまうことは、悲しみであり、傷みだと思います。どうでもいいものならともかく、私たちが大切にしてきたもの、苦労して築き上げてきたものなら耐え難いことなのだと思います。平然としていられないのだと思います。しかし、時に、そのような経験を通して、本当に大切なものは何かということを学ぶということがあるのではないでしょうか。
 《信仰の変革》
 実際、イスラエルの人々がそうでした。バビロン捕囚の時代、イスラエルの国は滅び、民はバビロンに奴隷として連れて行かれてしまいました。神殿も破壊されてしまいました。この出来事は、イスラエルの人々にとって耐えがたい出来事でした。イスラエルの人々にしてみれば、自分たちの信仰の拠り所が分からなくなってしまうような出来事でした。でも、実はこのことを通して、イスラエルの人々の信仰のあり方は大きく変えられていったのです。それまでイスラエルの人々の信仰や礼拝というのは、神殿中心であり、犠牲の献げ物が中心の礼拝でした。しかし、その神殿が無くなり、目に見える信仰の拠り所がなくなっていく中で、自分たちは聖書の御言葉を大切にしていこう…。そのように御言葉中心の信仰やあり方が変わっていったのです。それまでも聖書の編纂作業は行われてきたのですが、バビロン捕囚の後、旧約聖書は編纂されたと言われていま
す。
 《イエス様が指し示しているもの》
 私は、本日のイエス様のメッセージを聞きながら、ここに大切なことがあるのではないかと思いました。イエス様は何より、このことを人々に示そうとされているのではないかと思うのです。ローマ帝国という異邦人たちに支配され、苦しく、屈辱的な生活を強いられているイスラエルの人々にとって、神殿は拠り所だったのだと思いますし、彼らの誇りでした。そんな彼らに対して、イエス様はここで、彼らの思いを無神経に踏みにじろうとしているわけではなかったと思います。イエス様は、彼らにとって、神殿が無くなるということがどういうことを意味しているか分かっていました。でも、彼らにこのメッセージを通して、本当に大切なものは何かと指し示そうとされていたのだと思います。豪華絢爛な神殿が拠り所となり、誇りとなっている人々に対して、「そうではない」とおっしやりながら、人々の心を、復活のイエス・キリストの希望を拠り所する歩みに目を注ぐよう招いておられるのだと思います。
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2012年09月02日

「やもめの献金」

      ルカによる福音書21:1-4

イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

 《やもめの献金》
 イエス様がエルサレムの神殿にいた時のことです。人々が神殿に礼拝を献げにやって来ていました。そこで人々は思い思いに献金を捧げていました。この当時、献金を献げる賽銭箱というのは、ラッパのような形をしていたと言われています。具体的にどんなかたちであったのかは分かりませんが、恐らく口が大きく開いていて、お金を賽銭箱に入れた時には音が大きく拡大されて響いていたのではないかと考えられます。その理由は分かりませんが、本日の箇所でも誰がどれ位入れたか、おのずと分かってしまっていたようですから、賽銭箱にお金を入れる度に、チャランとか、ジャラジャラとか音が響いて、その音を聞けば、周りの人々は、額がどれくらい入ったのか、ある程度想像できたのではないかと思います。そんな中、金持ちたちが次々やって来て、ジャラジャラと音を響かせながら、献金を賽銭箱に入れていました。そこヘー人のやもめが賽銭箱にお金を入れました。彼女が賽銭箱に入れた金額は、レプトン銅貨二枚‥・。当時の貨幣価値としては、非常に少ない額です。きっと、この時、賽銭箱に響いた音は、正直非常に安っぽく、ささやかな音だったのではないかと思います。 しかし、その音を聞いたイエス様は立ち上がり、弟子たちにこのように語られたのでした。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」(21:3-4)。金額では誰よりも低かったかも知れません。賽賎箱に響いた音は誰よりも寂しかったかも知れません。 しかし、イエス様はこの人が誰よりもたくさん献げたんだとおっしやったのです。自分の持てるものを全て献げた…。神様の眼差しは、誰よりこのやもめの献げた献げ物に目を留めておられるんだと語られたのです。
 《嬉しかったよ》
 この女性は、自分が献げられるわずかな額に、恥ずかしそうにしながら、申し訳なさそうにしながら、献げていたかも知れません。自分の献げ物なんか、誰にも気づかれないし、献げても、献げなくても、自分がしていることなんて大したことなんかないと思っていたかも知れません。しかし、そんなやもめをご覧になられながら、主は、あなたの献げ物をちゃんと見ていたよ…。ちゃんと受け取ったよ…。あなたの献げ物が、一番嬉しかったんだよとおっしゃってくださるのです。
 《愛と慰めの眼差し》
 私たちは、本日の箇所から、この主の眼差しを心に刻んでいきたいと思います。愛と慰めに満ちた主の眼差しを心に刻んでいきたいと思います。主は私たちの本当の思いを知っていてくださいます。ちゃんと見ていてくださいます。受け取ってくださいます。それは、私たちにとって慰めと希望です。私たちの周りというのは、どれだけ一生懸命していても、時にそれが報われなかったり、意味のことのように思えたり、顧みられていないように思えることがあるかも知れません。 しかし、そんな中で、本日の主の眼差しは、私たちにとっての希望でありますし、慰めであるのだと思います。このような眼差しがあるからこそ、私たちは一つ一つの事柄に真っ直ぐに向き合って務めていくことができるのではないかと思うのです。
 《レプトン銅貨二枚》
 ただ一方で、この主の眼差しというのは、私たちにとって背筋が正されるようなことでもあるかも知れません。私はこのやもめの献金の物語を読む時、いつもハツとさせられることがあります。それはここでやもめの献げた献金が、レプトン銅貨二枚だったということです。一枚ではなく、二枚でした。 しかもそれは彼女にとって全財産の二枚でした。このことについて考えてみたいと思うのです。私だったら、どうだろうと思います。持っている額が、最初から一枚だけだったら、それを出すか、出さないかの選択になると思います。そして、出すのだったら、はなから全部出すことの決断ができているのではないかと思うのです。しかし、二枚という場合‥・。二枚出したい‥・。正直、心にはそのように促されていても、今はとりあえず、一枚だけにしよう‥・。もう一枚は、また次の機会にしておこう‥・。そんなふうに誤魔化してしまうかも知れないと思います。しかし、このやもめは二枚の銅貨を捧げました。ここには、そのような計算がないのです。ここに私たちはやもめの信仰を見るのではないでしょうか。
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2012年08月26日

「見せかけの祈り」

     ルカによる福音書20:45-47
民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。
「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」


 《律法学者に気をつけなさい》
本日の箇所で、イエス様は律法学者たちを激しく非難し、「律法学者に気をつけなさい」と言われました。イエス様がここで指摘している律法学者の過ちとはどんなものだったのでしょうか。イエス様は、ここで色々なことを挙げています。その中でも、私は「見せかけの長い祈りをすること」(20:47)という言葉にドキッとさせられました。私たちはしばしば律法学者と同じように「見せかけ」の方向に流されてしまうことがないでしょうか。特にここで挙げられているのは祈りの問題でした。おそらく、律法学者たちは人前で朗々と信心深そうに祈りの言葉を述べていたのだろうと思います。でも、周りを気にする余り、その祈りは神様に向けられたものではなくて、周りの人たちの前で格好つけて献げていくような祈りになっていたのです。しかし、そんな祈りに意味があるのでしょうか。私たちは祈りさえ、そのようなものになってしまうことがあるのです。
 《心が見せかけの方向に流されてしまう》
 心が見せかけの方向に流されてしまう…。そのことに気をつけなさい…。イエス様の呼びかけが心に迫ってきます。この問題というのは、本当に根の深いというか、時に分かっていても、そういう思いに流されてしまう私たちがいるのではないかと思います。見せかけは良くないということが分かっているのに、いつの間にか、懸命になって周りを繕って、言い訳していたり、見せかけだけ繕っている…。ついつい、そのような思いに流されてしまう私たちがいるのではないかと思うのです。実際そうなのではないでしょうか。そして、見せかけはいけないということで、じゃあ、見せかけで繕うことを辞めてしまう…。それだけでいいのだろうかとも思います。見せかけを止めて、覆いを取り除く…。そうすれば、万事が解決し、全てが美しくなると考えるなら、それは必ずしもそうではないかも知れません。見せかけを止めてしまう中で、嫌な部分、恥ずかしい部分が見えてしまうのだと思います。足りない部分があからさまになってしまいます。本当のことが見えてくる中で、傷ついたり、ショックを受けることがあるかも知れません。覆いをかけていた方がよほど楽だったりすることさえあるかも知れません。
《人間の根源的問題》
 そのように考える時、この問題というのは、中々悩ましい問題だと思います。敢えて言うならば、私たち人間の根源的な問題であるかも知れないとさえ思うのです。 聖書の創世記には、最初の人アダムとエバの物語が記されています。彼らは最初、神が造られた楽園であるエデンの園に住んでいましたが、神中心の生き方を否定し、自分を神とする生き方を始めていきました。それが神の戒めに背いて、禁断の実を食べるということでした。結果、アダムとエバは、もはや裸であることができなくなってしまいました。自分のありのままでいれなくなったのです。何かでもって身を覆わないではい
られませんでした。彼らはイチジクの葉で身を覆い、茂みの影に隠れてしまいました。一方で、そのように身を覆いながら、自分中心、自分が自分がという思いになっていきました。そんな彼らが罪を相手になすりつけていったのです。そのように、人間は、創世記の時代から、神中心の生き方を否定し、自分を神とする生き方を始めた結果、もはや裸であることができず、自分のありのままで立てなくなった…。見せかけでもって身を覆わないではいられなくなってしまったのです。同時に自分中心、自分が自分がという思いに突き進んでいきました。そして、それはそのまま、本日の律法学者の姿に重なってきます。見せかけの祈りを祈り、見せかけの長い衣を身にまとい、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む…。そのように自分が自分がという思いになっていく…。まさに本日の律法学者の問題というのは、創世記の時代から続く私たち人間の根源的な問題が浮き彫りになっている問題なのだと思わされるのです。
 《見せかけからの解放》
 私たちの根っこには、どうしても見せかけばかり覆ってしまおうとする思いがあったり、自分が自分がという思いが湧き上がってしまう思いがあるのだと思います。時にそうしないではいられない私たちがいるかも知れません。 しかし、もし、そのような思いから解放されることがあるとするなら、それは神の取り扱い、愛と赦しに出会うことなのではないでしょうか。その中で解放され、癒されていく時、私たちは自分の根っこにある思いから解放され、神の平和に生かされていくのではないかと思います。
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2012年08月05日

「主を拝するということ」

    ルカによる福音書20:41-44

イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』
このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

《救い主を待ち望む人々》
 本日の箇所は、救い主、メシア、キリストについて、イエス様が語られたところです。イエス様が働かれた時代、イスラエルの人々は、ローマの圧制に苦しめられていました。そんな中、人々は救い主の到来を心待ちにしていました。彼らは日々の困難な状況に喘ぎつつ、救い主の到来を求めて、祈り続けていたのです。
 《キリストはダビデの子》
 私たちは、何かを望んだり、期待したりする時、色々なことを考えるのだと思います。そして、段々と期待するものに対して、イメージを膨らませていくということがあるのではないでしょうか。ただそのような中で、余りにイメージばかりが先行してしまうこともあるのだと思います。イスラエルの人々は、救い主を求め、神に祈る中で、自分たちの中で様々な救い主のイメージを膨らませていました。そんな中、段々と出来あがっていった救い主のイメージは、力と権威の象徴としてのキリストの姿でした。人々は、やがて、来るキリストこそ、ローマ軍の圧制から自分たちを救ってくださると考えていたのです。そんな彼らの期待を象徴するような言葉が「キリストはダビデの子」という言葉だったと言えます。ダビデとは、旧約聖書に登場するイスラエルの歴史の中で、最も神に愛され、祝福された偉大な王様でした。まさにイスラエルの歴史の黄金時代の王様でした。人々は、そのダビデの名を挙げて、救い主を「ダビデの子」と語っていたのです。
 《人々が言っていたような「ダビデの子」ではない》
 本日の箇所で、イエス様は、人々に対して、「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」(20:41)と言われました。イエス様は、ここで単に「メシアがダビデの家系ではない」と言われているわけではないのだと思います。当時の人々が考えていたような「ダビデの子」ではないのだとおっしやっているのだと思うのです。「キリストはおまえたちが考えるダビデの子という言葉で表現しているものとは、まったく異なる」とおっしやったのです。そのように、イエス様は、人々が期待し、それまで作り上げてきた救い主のイメージに対して「違う」とおっしやったのでした。
 《詩編の言葉》
 イエス様はここで彼らに何を求めておられるのでしょうか。色々なことが考えられますが、私は本日の箇所を読みながら、イエス様が取り上げた詩編の言葉が心に迫ってきました。「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と』」(20:42-43)。この詩編の御言葉は、メシアが大いなる神の右の座につこうとしている場面です。詩編の詩人は、ここで主の御前に厳かな思いでひれ伏し、拝するような思いで、この詩を歌ったのだろうと思います。その姿が迫ってきました。何というのでしょう。本日の箇所には、メシアに期待し、メシアについてあれこれと思い描き、イメージを膨らませていく人々がいました。彼らは、そんなふうに、預言者たちが語ったメシアを、勝手に自分たちの側に引き寄せて、自分たちの都合の良いようにイメージを膨らませて、メシアはこういうものだと考えていました。そんな彼らに、この詩編の言葉のように主にひれ伏す思いはあったのでしょうか。砕かれ、厳かな思いで、自分を脇に置くような思いで、主にひれ伏しながら、主を拝していたのだろうかと思います。もしかしたら、その辺りが抜け落ちてしまっていたのではないでしょうか。そのようなところが問題だったのではないでしょうか。それゆえ、本日の人々はどんどん思い違
いをしていった…。イエス様に向き合うことができないでいた…。そんな彼らがいたのではないかと思うのです。
 《主の御前にひれ伏す》
 本日の箇所から考えさせられるのは、そのことです。日々の歩みの中で、自分の思いばかりが先に立ち、物事を自分たちの側に引き寄せて考えてしまう私たちがいます。そんな中、神様が本来意図していたことと違う方向に向かってしまう私たちがいたりします。勝手に迷ったり、思い違いをしたり、袋小路にはまってしまう私たちがいたりします。本日の箇所で、メシアをダビデの子と呼んでいたのは、そんな人たちだったのではないでしょうか。私たちは、本当に主に砕かれた思いでいるでしょうか。時に自分の都合や思いを脇において、厳かな思いで、主の御前にひれ伏し、拝する思いで向き合っているでしょうか。その時、始めて出会うものや、知ることができるものがあるのではないかと思うのです。
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2012年07月29日

「復活の信仰」

      ルカによる福音書20:27-40

さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。
すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。


 《サドカイ派の人々の質問》
 本日の箇所は、復活を否定していたサドカイ派の人々が、復活について質問してきたところです。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」(ルカ20:28-33)。この質問の意図は、復活を主張する人たちを批判することでした。一人の女性が色々な男性と結婚していたら、復活が起こった時、誰の妻になればいいのか分からない…。収拾がつかなくなってしまう…。世の中が混乱してしまう…。そんな復活を語るなんて、ナンセンスだ…。彼らはそのように、復活を否定しようとしたのです。
 《思い違いをしている》
 これに対してイエス様が応えられた言葉が、20:34以降に記されています。ただし、ルカによる福音書には書かれていないのですが、20:34からの説明を語られる前に、イエス様がおっしやった言葉が、マルコ12:24に記されています。「イエスは言われた。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか』」(マルコ12:24)。この「思い違い」というのは、惑わされているとか、迷ってしまっているとも訳せる言葉です。あなたたちは惑わされてしまっている…。迷ってしまっている…。そもそもそんな質問自体ナンセンスなんだ…。そのようにイエス様は言われたのです。このことは印象的です。サドカイ派の人々は、復活を現実問題に照らして考えた時、そんなものナンセンスだと主張していました。これに対して、イエス様は、復活がナンセンスではなくてあなたがたの質問自体が的外れだ、ナンセンスだと言われたのです。
 《サドカイ派の人々とイエス様の出発点》
 サドカイ派の人々と、イエス様との違いとは、何でしょうか。サドカイ派の人々は、諸処の現実の問題を踏まえて考えた時、復活を受け入れることができませんでした。現実の諸問題から出発して、信仰のこと、神様のこと、復活のことを考えた時、それらを受け入れることができなかったのです。これに対して、イエス様が言われたのは、全く逆方向からの視点でした。そもそも考えの出発点が、私たちの知識や常識ではなく、神様の側から出発し、神の約束としての復活を受け止め、信仰を受け止めようとしているのです。このことがサドカイ派の人々とイエス様との決定的な違いではないでしょうか。イエス様は、サドカイ派の人々に対して、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのだ」(マルコ12:24)と言われました。事柄を御言葉の約束と神の力から見てみなさいと言われたのです。サドカイ派の人たちは、神の力を知りませんでした。神の力を認めていませんでした。そんな中、彼らは、神の力と約束の極みである復活を認めていなかったのです。結果、彼らは、本当の聖書のメッセージや、その意味するところを受け止めることができませんでした。彼らはもちろん、聖書を知らなかったわけではありません。彼らは皆、聖書の研究者たちでした。しかし、いくら聖書に精通しても、神の力を知らなかったり、神を信じるという信仰から、御言葉のメッセージに向き合おうとしなかったら、本当の意味で御言葉のメッセージを聞き取ることはできず、本当の意味で聖書を知ったことにはならなかったのです。
 《どの出発点から始めるか》
 イエス様が、サドカイ派の人たちに言われた「あなたがたは思い違いをしている」という言葉を読む時、ドキッとします。私たちもサドカイ派の人たちのような思いに、迷い込んでしまっていることがあるのではないかと思います。どうでしょうか。私たちは、サドカイ派の出発点とイエス様の出発点、どの出発点から始めているでしょうか。時に、この世の問題から出発してしまったり、この世の考えが先に立っていたりする中で、肝心なことが分からなくなってしまっていたり、色々なものに対する考えが行き詰って、袋小路に入ってしまう…。そんなことがあったりするのではないかと思います。大切なのは、イエス様が指し示しておられる視点なのではないでしょうか。神の力を知り、その中で聖書の約束に向き合っていくこと…。その時、色々なことがクリアにされたり、定まっていくことがあるのではないかと思います。
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2012年07月22日

「はざ間のことがら」

     ルカによる福音書20:20-26

そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。
回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。
ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。
「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

《巧妙な罠》
 本日の箇所は、税金問答と呼ばれる箇所です。律法学者たちや祭司長たちは、イエス様に使者を遣わし、次のような質問をさせました。「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」(20:22)一見単純に思える質問ですが、この質問の裏側には巧妙な罠がありました。ここでイエス様が「税金を納めよ」と答えれば、彼らは「イエスは税金を納めよと語った。もはや憎いローマの手先となったのだ」と言ってイエス様を批難しようとしていました。また、イエス様が「税金を納めるな」と答えたなら、今度は「イエスは皇帝に逆らったのだ」と言って、イエス様をローマ総督に突きだそうとしていたのです。そのように彼らは、イエス様がどのように答えたとしても、その言葉じりをとらえて、イエス様を訴えようと狙っていたのです。
 《デナリオン銀貨を見せなさい》
ところがイエス様が彼らに答えた言葉がこうでした。「デナリオン銀貨を見せなさい」(20:24)。この時、イエス様は何故、わざわざ人々に銀貨を持って来させたのでしょうか。イエス様はお金を持っていなかったから、こんなことを言ったんだと説明する人もいます。しかし、イエス様は、デナリオン銀貨を持っている、いないに関わらず、彼らに対して意識的に、このデナリオン銀貨を特って来させ、「自分の目でその銀貨を見なさい」と語られたのだと思います。デナリオン銀貨というのは、ローマの通貨でした。そこにはローマ皇帝の肖像と銘が記されてありました。表の面には、時のローマ皇帝ティベリウスの肖像が刻まれ、「ローマ皇帝は神の子である」という銘文が刻まれていました。また、裏にはティベリウスの母の肖像も刻まれていて、「母なる神」と書いてあり、その母を称える銘文が刻まれていました。この銀貨がユダヤの人々に指し示すもの‥・。それは、自分たちがローマ帝国の占頷下に置かれているという現実でした。自分たちは、外国の支配者の肖像と銘の刻まれた硬貨を使用しており、そこには皇帝を神とする言葉さえ刻まれている‥・。先祖からの信仰を守ってきた彼らにとって、このことほど屈辱的なことはありませんでした。理屈としては到底受け入れられることではありませでしたが、現実に置かれた立場としては、外国の支配者の硬貨を日々使わなければ生活できませんでした。銀貨を見るということは、その自分たちの現実に向き合わされることでした。彼らは、イエス様の質問に対して、「皇帝のものです」(20:24)と簡潔に答えていますが、この一言には彼らの苦々しい思いが込められていたのでした。
 《現実と真っ直ぐに向き合う》
 このことを思う時、色々なことを思わされます。イエス様を上辺だけであれこれ言って批判しようしている彼らにとって必要だったのは、まず自分が置かれている現実の状況にきちんと向き合うことでした。その現実を無視したところであれこれ言っても、本当の話ではなかったのです。イエス様は、上辺の言葉じりばかりとらえてイエス様を避難しようとしていた人々に対して、「あなたたちだって、懐を探れば今もたくさんのデナリオン銀貨が入っていて、その銀貨で生活をしているじやないか」ということを示されるために、「デナリオン銀貨を見せなさい」と言われたのです。イエス様は、彼らに対して、「あなたがたの質問の答えというのは、手Q中の硬貨を見据えなければ生まれない。ありのままの現実と顔を合わせなければ得られない」ということを教えられているのだと思います。
 《はざ間の事柄》
 信仰というのは、現実を無視したような理想を語ることではないのだと思います。表面的な理屈や上辺の正しさを装って、これが正論だと言って満足できるものではないのです。信仰というのは、まさに今、私たちが立たされている現実を見据えさせていくものなのだと思います。時に矛盾を抱え、問題を抱えている現実を指し示していくものです。私たちは、本気で神様を信じていこうとする時、色々な障害にぶつかることがあります。そんな中、私たちは「こうありたい理想の自分」と「そうなれない現実の自分」のギャップを思わされる時があるのではないかと思います。しかし、そのような時こそ、ある意味、私たちが自分自身の現実と向き合っている時なのかも知れません。そして、信仰の問いかけというのは、そこから始まっていくのだと思います。私たちが今、立たされている場所で「こうありたい思い」「そうではない現実」のはざ間に立って、そこから、何を選び取っていくのか、何を信じていくのか、信仰の言葉は、そのような場所から紡ぎだされていくのだと思います。

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2012年07月08日

「ぶどうの滴り」

      ルカによる福音書20:9-19

イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』
農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。
戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』
その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。


《二つのメッセージ》
本日の箇所は、イエス様が語られた「ぶどう園と農夫」のたとえです。私たちは本日のたとえから大きく分けて二つのことを知らされるのではないでしょうか。一つは、神様と私だちとの関係です。イエス様は、ここではっきりと、神様と私だちとはこういう関係なのだと示しています。それは、主人と雇い人との関係です。神様は、言わば、ぶどう園の主人であり、私たちはその主人からぶどう園の管理を任され、尊い務めを託された雇い人なのです。イエス様は、このたとえを通して、そのことを明らかにしているのだと思います。もう一つは、神様が私たちに与えられているものについてです。ここで農夫たちが主人から遣わされて働きを託されている場所は、ぶどう園でした。聖書において、ぶどうというのは、しばしば象徴的な意味を含んでいます。聖書において、ぶどうは祝福や喜びの象徴として語られていることがあるのです。本日の箇所もそのような意味が込められているのではないでしょうか。神様は私たちを立たせてくださっているのは祝福の場所である…。主はそこで私たちに主の祝福を刈り取る働きを託してくださっているのです。この二つのことが、本日の箇所から知らされることです。実際、聖書を読むと、様々な箇所で、主がそのように一人一人を立たせてくださっている箇所があるのではないでしょうか。創世記のアダムのエデンの園の物語もそうですし、乳と蜜の流れるカナンの地にやって来たイスラエルの民もそうです。主はそれぞれを祝福溢れる場所に立たせ、そこで主の祝福を刈り取るための働きを託されているのです。
 《ぷどう園に匂っていたもの》
本日の箇所もそうでした。 しかし、どうでしょう。本日のたとえを読む時、そのような神と人との祝福の様子を感じ取ることができるでしょうか。どこかが歪んでいる…。間違っているように思えてなりません。本来、ここは、祝福に溢れたぶどうの香り漂う園でした。しかし、ここで実際に匂っていたのは、祝福に溢れたぶどうの香りではなく、血なまぐさい臭いでした。農夫たちの残虐な行為によって僕だちから流された血の臭いが辺りには漂っていたのです。
本日のたとえを読みながら思います。私たちの世界には、時に本来なら素晴らしいはずのもの、祝福であったはずのものが、そうでなくなってしまうことがあります。いつの間にか形が歪んでしまうことがあるのです。実際、それは、私たちの周りに多く見られることなのではないでしょうか。「ともだち」というのは、本来、私たちにとって祝福に満ちた言葉です。大抵の子どもたちは、「ともだちって素晴らしい」と信じて成長するのだと思います。 しかし、そのような子どもたちが小学生、中学生、高校生になっていく時、そうでなくなってしまうことがあります。 時に恐れの対象とさえ、なってしまうことがあるのだと思います。 そのようなことが、いじめの現実にはあるように思います。また、同じようなことが家族、親子、夫婦という言葉にも当てはまるのではないのでしょうか。本来、祝福であるはずのものが、祝福ではなくなってしまっている…。まさに私たちがしばしば目の当たりにする現実なのだと思います。
 《神様から与えられたはずのもの》
何故、そのように素直に喜べないのでしょうか。祝福として受け取れないのでしょうか。それは、家族、親子、夫婦というものが、本来あるべき姿からずれてしまっているからではないでしょうか。本日の箇所でもそうでした。農夫と主人との本来の関係がずれてしまっている…。そのことから悲劇は起こっているのです。さらに言うならば、本日のたとえにおいて、問題の原因となっているのは、農夫たちが、主人から預かったぶどう園を自分たちのものにしてしまったことでした。そこから、この祝福の場所は、歪んだものになってしまったのです。私たちはこの決定的な出来事を心に留めたいと思います。イエス様がエルサレムに入城されて以降、人々に対して再三に語られてきたメッセージは、まさにこのことでした。宮清めの箇所(19:45-48)、権威についての問答(20:1-8)もそうです。あなたがたは神様から与えられたはずのものを自分のものにしてしまっている…。神様の祈りの家であった神殿を自分たちのものにしてしまっている…。神様に権威を置こうとせず、自分たちの権威を誇示しようとしている…。そこに問題があるのだ…。ゆえに本来良いものであり、祝福であったはずのものが、そうでなくなっている…。イエス様が語られてきたメッセージの源流には、そのようなメッセージが流れているのだと思います。このことは、私たちにも問われていることではないでしょうか。
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2012年06月24日

「天からの権威」

      ルカによる福音書20:1-8
 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」
 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。
 ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」
 彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」
 そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。
 すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
 
《何の権威で》
 本日の箇所は、イエス様が神殿の境内で人々に教えておられた時、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、イエス様に質問した箇所です。彼らはイエス様に「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」(20:2)と言いました。ここで彼らが問題にしている「このようなこと」とは、直接的にはイエス様が神殿の境内の中で人々に教えられていたことなのだと思いますが、その背景には19:45-46の出来事が問題となっていたのだろうと思います。 19:45-46には、イエス様がエルサレムの神殿にやって来て、神殿で商売をしていた人々を追い出されたという記述がありますが、祭司長、律法学者、長老たちにしてみれば、「一体何様のつもりでこんなことしているんだ!」という思いだったのではないかと思います。自分たちのテリトリーにやって来て、好き放題をし、しかも、その後も、神殿で人々に教えておられるイエス様の姿を見て、「赦せない」という思いで質問したのです。彼らは、イエス様の答え方いかんによっては、すぐさま言葉じりをとらえて、イエス様を連行してしまおうと考えていたのだと思います。
 《秘密は秘密のままに》
 本日の箇所には、そのようにイエス様に祭司長たち、律法学者たち、長老たちの姿があります。しかし、彼らは、せっかくイエス様に権威を問いながら、その答えを見出すことができませんでした。彼らにとって神の国の秘密は秘密のまま終わってしまったのです。何故でしょうか。本日の祭司長たち、律法学者たち、長老だちとイエス様の対話の中から考えさせられることがあります。それは、そもそも彼らが本当のことを知りたかったのだろうかということです。それよりもただただ自分たちの保身や、身の安全のことばかり考える彼らがいたのではないでしょうか。本日の箇所で、イエス様は彼らに言いました。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」(20:3-4)。 イエス様にこのように問われた時、彼らにとっての関心は、「ヨハネの洗礼が本当はどこから来ているんだろうか」ということではありませんでした。そうではなくて、終始、イエス様に対して、自分たちがどのように答えれば安全な結果をもたらすのだろうかということでした。それゆえ、彼らはこんなふうに考えたのです「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから」(20:5-6)。このように、彼らにしてみれば、実際にヨハネの洗礼が天からのものか、人からのものかということはどうでも良かったのでした。それよりも自分たちがもし、「天からのものだ」と言った時には自分の間違いを認めることになりますし、「人からのものだ」と言った時には、民衆の怒りを買うことになりかねない…。そのように、自分にとって「何が安全か」「自分自身が損なわないか」ということが重要なことだったのです。 結果、彼らはイエス様の質問に対して、「どこからか、分からない」と答えて誤魔化してしまいました。そんな彼らの姿をみてどうでしょう。彼らのズルさというか、弱さのようなものを感じます。そして、どうでしょう。そんな彼らの姿を見ながら、私たちにもそういう姿があるかも知れないと思います。そして、そんなズルさや弱さで誤魔化してしまっている中、本日の彼らのように、私たちは何か大切なものを取りこぼしてしまっていたりすることがあるかも知れないと思います。
 《本当のことを知りたいと思うなら》
 改めて、考えてみる時、本日の箇所で彼らは大切な信仰の岐路に立だされていたんだと思います。イエス様の質問に、どう向き合うかは、彼らの歩みを大きく変えていくものでした。もし、彼らがバプテスマのヨハネの権威は天からのものということを認めることができれば、物事の見方、考え方は全く変わりました。彼らはここから本当に神と向き合って生きる歩みが始まったのだと思います。彼らが本当のことを知りたいと本気で思えば、分かったかも知れませんでした。主の真実、救いに至る道を知ることができるかも知れませんでした。しかし、彼らは、自分を否定することができませんでした。自分ありきでしか、物事の答えを出すことができなかったのです。結果、その問いから逃げてしまったのです。結果、彼らは救いからこぼれてしまったのです。
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2012年06月17日

「祈りの家」

       ルカによる福音書19:45-48
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

《エルサレムの問題》
 イエス様はエルサレムの都をご覧になられた時、「その都のために泣いた」(19:41)と記されています。その後、イエス様がエルサレムの都に入って来られ、最初に神殿に来られました。イエス様は、エルサレムを嘆きつつ、事柄を見抜かれ、「エルサレムの問題はここにあるんだよ」とおっしやっているのではないかと思います。
 《神殿が金儲けの場所に》
 イエス様が神殿に入ってまず聞こえてきたのは、人々の祈る声ではなく、商人たちがものを売り買いする声でした。神殿にはたくさんの商売をしていた人がいて、神殿が金儲けの場所となってしまっていたのです。当時、人々が礼拝を献げるには厳しい決まりがありました。そこで献げられる犠牲のいけにえは、傷一つ無いものでなければならなかったのです。 しかし、遠くから巡礼者としてやって来る人たちにとっては、犠牲の動物を傷一つつけないで運んでくることは大変でした。このため、多くの人たちは、エルサレムまでやって来ると、そこで犠牲の動物を買い、礼拝を献げていたのでした。また神殿にお金を納めるに関しても、普段使っているようなお金を献げることができませんでした。神殿で使える硬貨に両替しなければなりませんでした。このため、商人たちは、礼拝を献げるための犠牲の動物を売ったり、硬貨を両替して金儲けをしていたのです。人々の「礼拝したい」という思いを金儲けの手段としている商人たちの姿…。そんな人々の様子をご覧になったイエス様は、神殿が本来の神殿あり方とは、余りにもかけ離れている姿に黙っていることができなくなり、商人たちを神殿から追い出したのです。
 《本来の神殿の姿》
 そのように、本日の箇所はイエス様が神殿のあり方を見て、激しく憤られた箇所ですが、そもそも神殿の本来の姿とはどういう姿なのでしょうか。歴代諾下6章には、神殿を最初に立てたソロモンが、神殿を建てた後、イスラエルの民が奉献礼拝を献げている様子が記されています。歴代諾下6:14以下にはソロモンの祈りの言葉が記されていますが、これは「七重の懇願」と呼ばれています。 ソロモンはここで七つの祈りの言葉を献げながら、神殿が建て上げられるにあたって、もし、こういう場合にはこうしてくださいと祈っているのです。@もし人が隣人に罪を犯した時(6:22)、Aイスラエルの民が罪を犯し、敵に打ち負かされた時(6:24)、Bイスラエルの民が罪を犯し、雨が降らなくなった時(6:26)、C飢饉や疫病、その他様々な災いが及んだ時(6:28)、Dイスラエルに属さない異国人がこの地に来て祈る時(6:32)、Eイスラエルの民が戦いに直面している時(6:34)、Fイスラエルの民が罪を犯し、戦いに敗れ、敵地に捕虜とされた時(6:36)、主がその祈りを顧みてくださるように祈っているのです。この祈りの言葉から知らされるのは、神殿が建てられた当初、ソロモンやイスラエルの人々が祈り、願い、そして、信じた信仰というのは、神殿があらゆる状況、あらゆる人々が主を見上げていく場所、祈りの場、いざという時の拠り所となっていく姿だったということではないでしょうか。
 《礼拝の場所を建て上げていく人》
 しかし、本日の箇所で、神殿はどうなっていたのでしょう。そこには、人々の「礼拝したい」という思いを利用して金儲けをしている人たちがいて、一方では礼拝できない人たちを脇に追いやってしまっているような有様でした。加えて、ルカ18:9-14に記されているファリサイ派の人と徴税人のたとえなどを読んでみると、隣で祈りを献げている徴税人を横目で見ながら、「自分は、あんな奴ではない」と蔑み、神殿で礼拝を献げながら、相手のあらばかり見て、互いを裁きあっている状況もあったのです。余りに本来の礼拝の姿とかけ離れた様子でした。そんな姿を見ながら、どうでしょう。私たちの教会や礼拝の場所はどうだろうかと思います。あらゆる状況、あらゆる人々にとって主を見上げていく場所、折りの場、いざという時の拠り所となっていく…。私たちの教会も、そういう場所でありたいと願います。しかし、一方で覚えていたいことは、そのような場所をそこに集う私たちが建て上げていくのだということです。
神殿は、本来、ソロモンの七重の懇願の祈りによって始められました。しかし、その後、そこに集う人々が、神殿でどのような礼拝を献げていったのでしょうか。それが本日の状況でした。同じように礼拝の場所に集う私たちが、この場所をどう整えていくのかということが問われているのではないでしょうか。


posted by 郡山コスモス通りキリスト教会 at 00:00| ルカによる福音書