2010年04月04日

「見なくても、信じられるもの」ペトロの手紙 一 1:8-9

《信じられない人》

シェイクスピアの『オセロ』という作品を御存知でしょうか。ざっとあらすじを紹介しますと、ヴェニスに住む貴族でムーア人のオセロには、デズデモーナという最愛の妻がいました。二人は大変仲がよく、互いに愛し合っていたのですが、ある時、そんな二人の間を引き裂く者が現れます。

オセロのもとで働いていたイアーゴーという男が、自分と同じようにオセロのもとで働いていた同僚のキャシオーが自分を差し置いて出世をしたことを妬み、オセロに対して、同僚があなたの奥様と浮気をしていますよと嘘をつくのです。そして、イアーゴーは、その証拠として、オセロが奥さんにプレゼントしたハンカチを同僚の部屋に置いたのでした。これを見たオセロは怒り狂いました。

そして、イアーゴーに対して、自分の妻と浮気をした同僚を殺すように命じ、自分はデズデモーナを殺してしまうのです。しかし、最後にそれが根も葉もない嘘だったことが明らかにされ、全てがイアーゴーの策略だったと知られるのです。

しかし、それが分かった時には、全てが手遅れでした。オセロはすでにデズデモーナを殺してしまっていたのです。オセロは自分が取り返しのつかないことをしてしまったことに、胸が引き裂かれるような思いにさせられながら、亡くなったデズデモーナに口づけをし、最後は自らも命を絶ってしまうのでした。

この物語を読んで痛感するのは、人が人を疑いだすことの恐ろしさです。オセロはデズデモーナを、心から愛し、信頼していたのですが、イアーゴーの策略により、その関係が崩れてしまいます。オセロは最初、イアーゴーの言葉に「そんなことあるものか」と耳を貸そうとしませんでした。しかし、心には疑いの心がわきあがり、考えれば考えるほど、その思いがどんどん広がっていきます。

そんな中、今まで自分を愛してくれていると思い込んでいた奥さんの笑顔も、その裏に何かあるんじゃないだろうかという思いでしか見れなくなってしまうのです。何を見ても、あやしいとしか思えない・・・。何気ない仕草全てが疑いの目でしか見られなくなってしまうのです。人が一端、相手と信じられなくなると、相手との関係がこれほど変わってしまうのだろうかということをまざまざと知らされる物語です。

《信じるものを探している人》

私は牧師として、様々な方に関わらせていただく機会がありますが、その中で思うことは、現在、本当に信じるということで迷っていたり、痛んでいたり、傷を抱えている人が多いということです。そして、そのような状況というのは、どんどん広がっているのではないかと思います。人と人との関係や、将来の希望に対して、信じることができない・・・。そんな中、悩んだり、苦しんでいる人というのが、たくさんおられるのではないでしょうか。

確かに今の時代、信じることが難しいですし、何でもかんでも簡単に信じると言うことができない世界が広がっています。しかし、人というのは、何かを信じないでは生きていかれないのです。自分の中に何かしら信じるものを持っていなくては生きていかれないのです。そんな中、多くの人が必死に信じるものを探しているのではないでしょうか。

《見なくても、信じられるもの》

そんな私たちに呼びかけられているメッセージが、本日の聖書の御言葉です。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(Tペトロ1:8-9)。この手紙は、迫害され、苦しんでいるクリスチャンたちを励ますために送られた手紙です。

この時、手紙を実際に受け取った人々というのは、現在の私たちには、想像もつかないような厳しさや困難の中にありました。明日さえどうなるか分からない・・・。そんな不安と悩みの日々を過ごしていたのです。

しかし、その中で、この手紙は呼びかけています。あなたの心は愛に溢れているじゃないですか。見たことがないはずのキリストをあなたがたはこんなにも愛しています。そして、今は目で確かめることができなくてもキリストを心から信じています。そして、言葉では言い尽くせないほどの素晴らしい喜びに満ちあふれています。そのように語るのです。

ここには、状況としては不安と悩みが尽きない状況の中で、確かに信じるものが与えられている・・・。そんな中でぶれないものをもっている・・・。そんな人々の姿が語られています。そして、それがイエス・キリストの十字架と復活を信じ、救いに与っていった人の姿でした。聖書は、私たち一人一人をそのような世界へと招いているのです。

posted by 郡山コスモス通りキリスト教会 at 00:00| ペトロの手紙 一