創世記4:1《主によって男子を得た》
4:1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
本日の箇所については、様々な見解があると思いますが、ある方はこの箇所について「聖書に記されている最も古い讃美の言葉が書かれている」と解説しています。この箇所は、最初の人間であるアダムとエバが、エデンの園を追放された後、息子のカインを生んだ場面ですが、この時、エバは「わたしは主によって男子を得た」(4:1)と言いました。このような形で、「自分は主によって何々をすることができた」と感謝している箇所は、創世記を見ると、ここが初めてなのです。
《讃美に相応しい場所》
そのことを思う時、私はまず、不思議に思うことがあります。それは「なぜこの時なのだろうか」ということです。創世記2-3章には、神様がこの世の楽園としてエデンの園を作り、そこにアダムとエバを住まわせた記述が書かれています。彼らはエデンの園で何不自由ない祝福された毎日を送っていました。にも関わらず、ある時、蛇の誘惑によって、彼らは食べてはいけないと言われていた禁断の実を食べてしまい、そのお陰でエデンの園から追放されてしまうのです。創世記4章は、エデンの園から追放されたアダムとエバの物語です。普通に考えれば、こんな時より前に、もっと最初の讃美が生まれるのに相応しい状況があったのではないかと思います。エデンの園に住んでいる時、アダムとイブはよほど、神様から祝福され、恵みに与っていたのですから、その時のほうが相応しかったのではないでしょうか。
《神様を讃美しようとしたどころか》
エデンの園に住んでいた時のアダムとエバに神様への讃美がなかったとは思いません。彼らは彼らなりに神様に感謝していたのだと思いますし、エデンの園に住んでいた彼らの歩みは、様々な場面で喜びの歌が溢れていたのだと思います。しかし、やはり聖書には、エデンの園に住んでいたアダムとエバが、4:1のようなはっきりとした形で、神様を讃美している様子は書かれていません。そして何より、聖書が語っているのは、エデンの園で祝福され、数え切れないほどの恵みに与っていたアダムとエバが最終的に何をしようとしたのかということです。彼らは、神様を讃美しようとしたどころか、自分自身を神にしようとしたのでした。蛇に誘惑され、「この禁断の実を食べれば、あなたも神のようになれるんだ」という誘いを聞くと、それに心が動いてしまい、自らを神にしようとしたのです。
《自分を誇ろうとしてしまう私たち》
この創世記の物語は、私たちに讃美というものについて様々なことを語っているのではないかと思わされます。讃美というのは、単に喜ぶことではありません。楽しむことでもありません。もちろん、讃美の内実は喜びです。しかし、何より大切なのは、その喜びは何を基にし、どこに向けられているかということです。私たちは時にエデンの園のアダムとイブのような歩みになってしまうことがあるのではないでしょうか。教会の中に豊かな讃美が起こされ、共に喜びに溢れている・・・。しかし、その喜びが何を基にしているのか、何に向けられているのかがあやふやになってしまう中、讃美の質が変わってしまったり、讃美が讃美でなくなってしまうことがあるかも知れません。そんな中で、神様を讃美するべき場所で、自分を誇り、自分を褒め称えようとしてしまっていることはないでしょうか。
《讃美とは》
私たちは2-3章のアダムとエバと、4章のアダムとエバにどんな変化を見るでしょうか。色々なことが言えるかも知れません。しかし、何より思うのは、4章において、彼らは自分の中にある罪の問題を嫌というほど知ったということです。彼らは禁断の実を食べ、自ら罪を犯し、どうにもならない自分の弱さと罪の性質を知らされました。そのように自分の中に誇れるものはないことをまざまざと見せらされました。そして、神の怒りを経験したのです。しかし、その先に、なお現される神の恵みを知りました。その時、自分は今も神の恵みによって生かされていること、神なしに生きられないことを学び、彼らの口から讃美が生まれたのです。私たちも同じような経験を通ることがあるかも知れません。自分の弱さを悟り、罪の性質を悟りながら、自分の中に誇れるものはないことを知らされていく・・・。同時に、そんな自分が神の恵みによって生かされていること、神なしに生きられないことを学ぶ時、私たちは本当の意味で讃美とは何かを知るのです。讃美というのは、自分が輝くことではありません。主が輝くことであり、主の輝きを知っている人の告白なのです。